TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 富永農場 実態が判明-倶知安町史登場へ「開拓日記」を発見(1991年7月1日付 朝日新聞)

 富永農場 実態が判明-倶知安町史登場へ「開拓日記」を発見

 標記の見出しの新聞記事コピーが資料ファイルの中から出てきた。1991年7月1日付けの朝日新聞25面(北海道総合)と明記してあるので北海道だろうか。この新聞は、多分、私の義父(つまり家内の父親)が保存しておいたものであろう。義父は、倶知安で生まれ小学生から中学くらいまで倶知安で育ったといっていた。その父親(つまり家内の祖父)は、元々は職業軍人で長崎大村の生まれで、退役後に倶知安で農場を経営していた。途中で、倶知安の農場を雇い人に任せて、東京に出てきて四谷に住んでいた。その後には千葉県習志野あたりの陸軍練兵場の近辺で、馬糞を利用して、茸(シャンピニオン)の栽培を行っていた。というような来歴を義父から聞いたことがあるが、聞き流していたので詳細はわからない。私は富永家の養子におさまったので本来なら富永家を再興して継続していく立場にあった。しかし、残念ながら恵まれた子ども(娘)は全て他家に嫁いだので、富永家は私たちで終わりとなる。
 先日、NMさんが土佐の松村家は明智光秀の残党であることを墓石の解読や寺の過去帳系図をたどり纏めた書物(2冊)を読んだ。触発されて富永の温故知新を記録しておくことは残された必要義務とも思えてきた。ということで、標記の新聞コピーを全文引用して記憶と記録に留めておく。以下引用。

 後志支庁倶知安町の「富永農場」が初めて倶知安町史に登場することになった。同農場は、多角経営農場のパイオニアのひとつ。これまで、実態がわからかったが、同町教委が開基百年記念開拓資料展開催のため、町民に呼びかけ当時の資料収集を始めたところ、同農場を開拓したとする退役軍人の日記手帳が持ち込まれ判明した。
 富永農場は、広島県人の富永寅次郎(元海軍中佐)が独力で大正四年、同町樺山地区を開いた。
 この農場は昭和五年代まで続き、ジャガイモ畑約二百ヘクタール、でんぷん工場と石材業を併営するという当時では珍しい多角経営の大農場だった。しかい、太平洋戦争後二回発行された倶知安史には、なぜか全く姿をみせなかった。このため、存在をして知っていた同町内の郷土史愛好家から「せめて百年史には・・・」という声があがっていた。
 富永農場発掘のきっかけになったのは、先代が富永農場にかかわりがあったという同町樺山の農業納田和一さん(59)から、入植当時の寅次郎の日記手帳や経営の収支を示す判取帳など数十点が持ち込まれ、同町教委の矢吹敏男学芸員(39)らが整理を進めるうち、富永農場の存在がはっきりした。
 手帳は経十二・五センチ、横七センチで、大正四年、単身で函館上陸、その後、小樽で五百五十円を金策して倶知安に入植。小作人らと住家を建て開墾を始め、でん紛工場を作る模様などが記されている。
 その富永農場は、百年記念史で新設する『大正時代の農業近代化』の項で、「多角経営農場のパイオニア」として初めて姿を見せる。

 上記の記事には、寅次郎の手帳の見開き写真が載っている。「幻の農場の判明の手がかりと日記手帳」のキャプションがついている。

 <コメント>

 上記の新聞記事掲載の折に富永寅次郎の子孫が東京と千葉に健在との認識はあったのだろうか?義父はこの記事を偶然に見つけたのか?あるいは電話取材くらいがあったのだろうか?興味深い。機会があれば倶知安に行ってみたい。記憶と記録のためにここに記入した。

 追加:本日は合気道の土曜日稽古の日であった。両手取りからの各種の技の稽古を行った。両手取りからは、呼吸投げ、回転投げ、入り身投げ小手返し、腕押さえ投げ、等々の各種の投げ技に展開できる。記録と記憶のために追加した。