TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『病院で死ぬということ(山崎章郎)』と私の生老病死

  山崎章郎さんが、1990年に書いた『病院で死ぬということ』を読んでいる。いまから32年前に出た本だ。「本当のことを言おうか」という思いでまだ若い山崎さんが書いた本だ。1990年と言うと、私は医学界新聞の記者の時代でエイズ分子生物学C型肝炎ウイルスを追いかけていた。当然、この本の出たこともマスコミで話題になったことも知っていた。1992年に新聖路加国際病院ができた際に日野原重明院長にインタビューした。その折に、「有終の医療」を語る際の冒頭で日野原さんが山崎章郎さんの「病院で死ぬということ」の中味を紹介していいた。それなのに私は読まなかった。この直後に山崎さんの「病院で死ぬということ」を探して読むべきであったのだ。読んでいたら、医学記者としての私の立場も取材の仕方ももう少し違った方向に深まったかもしれないと思う。ともあれ、この本を遅まきながら読み始めてよかった。この本を読んでいなければ、私が書いている私的物語『医・人・時ー私の「医人」たちの肖像」も随分と底の浅いものになるだろうと感じる。今からでも遅くない。この本を読み進める。

「ある男の死」
「密室」
「脅迫」
「シベリア」
「希望」

 この本では、「はじめに」に続いて上記のようなタイトルで、病院で死んでいった五人のひとの死に際の物語が書かれている。この最後の物語を山崎さんは、こう結んでいる。

<家族にも医療にもそして社会にも見捨てられ、まるでゴミのように死んでゆく多くの老人たちのことを見たり聞いたりしていると、この国の誇っている豊かさとはなんなのだろうか、とむなしい気持ちに襲われる。このゆおな現実を見る限り、僕はこの国が豊かでいい国だ、なんて誰にも言わせない。そう思う。>

 こう結んで山崎さんは、次の章「僕自身のこと」で、自らの転機となった、南極航海の船医として過ごした数カ月の経験を語る。
<1983年、冬から夏にかけ、僕は海上にいた。正確に言えば、北半球の冬から南半球の夏にかけて僕は海上にいた。その年の十一月下旬、三十四歳の誕生日を迎えたばかりの僕が乗り込んだ船は日本を離れた。・・・>

 この航海のなかで、山崎さんは1冊のの本位に出会う。『死ぬ瞬間(On Death and Dying)』(川口正吉訳読売新聞社刊、1971年)である。
 山崎さんは、この本の中の次の一節に衝撃を受ける。

<『患者がその生の終わりを住みなれた愛する環境で過ごすことを許されるならば患者のために環境を調整することはほとんどいrなない。家族は彼を良く知っているから鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒をついでyるだろう。家で作ったスープの香りは、彼の食欲を刺激し、二さじか三じ液体がノドえお通るかもしれない。それは輸血よりも彼にとっては、はるかにうれしいことではないだろうか。>

 この航海のあとで、山崎さんは変わったのだ。というよりも、変わるために彼は航海に出た。あるいは、航海に出なくても彼の医師としての疑問をかかえた心はどこかで変わる契機をみつけたのかもしれない。

 <そして、(1984年)四月、僕は人口三万人ほどの小さな市の病院へ勤めることになった。その病院へ勤めて間もなく、僕は重大な問題に直面した。>

 1984年というと、私は1981年に医学会新聞の記者になってから三年目だ。山崎さんは、1947年生まれだが、私より1年若いから36歳だった。山崎さんは、この病院で末期がんの男性患者のさいごの場面に立ち会うことになった。こう問いかけられた。

<しかし、衰弱のきわみに達し、もう数日かと思われたある日のこと、一人で彼の部屋を訪ねた僕が、簡単な話をして彼の部屋を出ようとしたときに、彼はいきなり息も絶え絶え絶えの弱々しい声で、しかし、はっきりと「ところで先生、私のほうんとうの病気はなんだったのですか?」と『』質問してきただ。僕は、意表をつかれ、一瞬うろたえた。部屋には彼と僕の二人しかいなかった。彼は僕を見つめていた。そうだったのか。彼は自分の体が衰弱してきてからは、ずっと自分の病気に対して疑いを抱きつづけてきたのだ。そして、誰の目にも彼がもはや数日かと思われたその日、みずからも自分の命が終わりに近いことを知ったのだろう。>

 この問いかけに対して山崎さんは応えることができなかった。
<僕は彼の質問に対し、聞こえなかったふりをし、全く別の話題で話をそらした。>

 以上の経緯で、山崎さんの物語は後半の五編に移る。

「十五分間」
「パニック」
「五月の風の中で」
「約束」
「息子へ」

 以上の、5編の物語も、病院で死んでいったひとの物語である。いずれも、主治医であった山崎さんと患者と家族の物語である。「五月の風の中で」は、最終的には自宅でb亡くなったのだが、…、中身は同じようなものだ。同じく死んでいったひとの五編の物語だが、前半の五編と後半の五編にはかなりの差がある。後半の五編においては、山崎さんは患者に「本当のこと」を話すことによって、患者とも、その家族とも心の交流を持つとごできた。

<人はだれでも死ぬ。そのときに自分の愛する人々に、自分が存在したことを心から高く評価されることほどうれしいものはないだろう。そsて、再び、僕はしみじみと彼に真実を伝えてよかったと思ったのだ。>

 そして、最終章は、「そして僕はホスピスを目指す」となっている。その最終章はこのように始まる。

<偽りのない交流の中で

 僕は以上のわずか十編余りの物語を書くために二年の歳月を必要とした。「たかだかコン程度の物語を書くために、二年も必要としたなどとは、なんとも大げさな奴だ」と思う人もいあるだろう。しかし、僕は作家ではなく、医者であり、実際、多忙だったのだ。だが、これらの物語はなんとしても書きあげたかった。悲惨な死を迎えねばなんらなかった、多くの患者の無念を少しでも晴らしたかったし、患者の立場に立っった配慮をしていけば、自分なりの最期を迎えることが可能であることを示してくれた人たちのことを知ってほしかったからである。>

 こうして、山崎さんはホスピス医師の道を突き進むことになる。
<僕の前にも僕の後ろにもホスピスにつづく道はある。だが、いまだその道は狭く、険しい。僕はその道の整備に、医者を職業としている一人の人間として参加する二十一世紀がテクノロジー万能の社会ではなく、少しでも人間的な社会であることを目指すためにーー。>

 この本は、1990年に出ている。その数年後。山崎さんがホスピスを目指して歩み始めたころに、大和市臨床懇話会で山崎さんの講演を聞いた。それでも、肝腎の『病医院で知宇ぬということ』を私はよまなかった。医学記者として失格だね・・・。爾来、32年後の現在、山崎さんご自身が、ステージ4の大腸がんで苦しんでいる。神は全ての人に苦しみをあたえるのだろうか?

れら

(続く)