TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「精神医学と宗教 魂に迫る文学」ー作家 加賀乙彦さんを悼むー(沼野充義)さんが書いていた

 作家の加賀乙彦さんが亡くなったのはつい最近だ(2023年1月12日)。誰かが追悼文を書くだろうと思っていた。本日の朝日新聞朝刊(2023年1月24日)にロシア文学者の沼野充義さんが標題のタイトルで追悼を寄せていた。「寄稿」となっているので、依頼ではなくて沼野さんの方から寄稿したのだろか?それと沼野さんの肩書が「スラブ文学者」となっていた。沼野さんといえば、元東大のロシア文学教授ではなかったかな。ロシアのウクライナ侵攻以降(いやそれより前か)ロシア文学の旗色は悪い。人気がない。私がでた北海道大学文学部ロシア文学科は、学科そのものがなくなってしまったようだ。ロシア文学もロシア語も人気がない。北大には以前は「スラブ研究所(通称スラ研)」があり、ロシアとの関係に際して一家言を申す人が複数おられた。ところが、最近のロシアの戦争に対しても、地理的に一番ロシアに近い北海道大学から「ロシアとウクライナの戦争」について分析的な発言も論考もない。沼野さんは何処かで言及していたと思う。
 さて、スラブ研究家の沼野さんが、逸早く加賀乙彦さんの死に際して追悼文を寄せたのは何故だろうか?関心を持った。加賀乙彦さんの作品は、「帰らざる夏」と「頭医者」くらいしか、わたしは読んだことはないのだが、本質的な文章を書くひととの憧憬をもっていた。今回の沼野さんの文章は簡潔に加賀乙彦さんを紹介してくれている。記憶と記録のために多くを引用しながら纏めておきたい。

 <作家の加賀乙彦氏が1月12日に93歳で亡くなった。長い人生を精力的に生き、多くを書き、多くを成し遂げたひとだった。この大きな人間の死とともに一つの時代が終わったという喪失感がひしひしと迫ってくる。まさに、巨星落つ、である。>

 加賀さんは、1929年4月22日生まれである。加賀さんの死因は「老衰」と訃報にでていた。93、94歳くらいで亡くなる方の死因に老衰が散見される。がんとか心疾患とか確たる病を持たない時に、「老衰」と認定されるのだろうか?

 <加賀氏は1943年名古屋の陸軍幼年学校に入り、軍国少年としてのエリート教育を受けたが、卒業前に終戦を迎え、戦後は一転、旧制都立高等学校に進み、ここでは学校の勉強をそっちのけで文学を読みふけったという。そして東大医学部に入学、精神医学を学んだ。卒業後は東京拘置所の医務技官として多くの死刑囚に接し、1957年にはフランス政府国費留学生として渡仏、精神医学の研鑽を積んだ。帰国後は東大助手、上智大学などの大学での職歴を順調に積むかたわら、医学研究者としての経験を生かして小説を書き、やがて大学の職を辞して筆一本の生活に入った。>

 沼野さんが、加賀さんの初期の経歴をなぞってくれた。名古屋の陸軍幼年学校で軍国少年としてのエリート教育を受けた。ここのところは、お世話になった伊集院俊隆さんと同じである。伊集院さんは1929年生まれだから生きていたら94歳くらいだ。伊集院俊隆さんも名古屋幼年学校出張なので、もしかしたら加賀さんと同じ時期に過ごしたのではないだろうか。陸軍幼年学校と言えば超超エリート学校だと聞いた。加賀さんの初期の小説「帰らざる夏」は、四年学校の時代も含めた加賀さんの少年時代から書き起こしていたのではなかったろうか?美少年だった加賀さんは陸軍幼年学校で少年愛の対象になったという成長の物語だっと記憶する。読みかえしてみよう。加賀さんがフランス政府国費留学生として、フランスで学んだとは知らなかった。小説「頭医者」ではフランス政府国費留学生として留学に三回くらい失敗する医学生が出てくる。このモデルは後に神経解剖学の泰斗になられた萬年甫さん(1923年~2011年)だと聞いたことがある。加賀さんは一発でフランス政府国費留学に受かったのだろうか?

 <作家としての加賀氏は、日本文学大賞、大佛次郎賞芸術選奨文部大臣賞などの大きな賞を次々に受け、文化功労者芸術院会員にも選ばれ、多くの読者に恵まれた。だから決して「孤高」というわけではなのだが、同時代の多くの作家にはないような、際立った特徴があり、それが加賀氏の存在を特別なものにしている。>

 加賀さんの小説を余り読んでいないので、上記のように纏めてもらうと理解しやすい。

 <第一に、既に述べたように、加賀氏は長年精神医学を研究し、その専門的見識を小説中のl人間観察に活かした。作家としてのデビュー作『フランドルの冬』精神科医としてのフランス留学体験に基づくものだったし、代表作の一つ『宣告』は、拘置所で出会った死刑囚正田昭をモデルとして、刑死する運命の人間の魂の奥底まで洞察した大作だった。>

『フランドルの冬』を読んだような気もするが覚えていない。こんど読んでみよう。

 <第二に、加賀氏は上記の正田昭が獄中でカトリックに入信して信者であったことをきっかけに、後に自らも敬虔なカトリック信者となり、それが晩年の創作や思想に少なからず影響を与えた。加賀氏にキリシタン大名を主人公とした『高山右近』などの小説もあり、キリスト教者として宗教的思索を深めたことは、人間の生と死について深く透徹した見方をすることにつながった。>

 この辺の件を読むと、キリスト教をしらない私にはわからない。加賀さんは遠藤尾周作さんとの接点はなかったのだろうか?

 <第三に、若いころからフランスやロシアの小説、特にバルザックドストエフスキートルストイなどを耽読した加賀氏は、質量ともに圧倒的に豊饒なヨーロッパの小説に範を取り日本には稀な本格的長編作家となった。代表作の一つ、『永遠の都』(新潮社文庫で全七巻)は、昭和10年から22年までの日本を舞台にし、激動の戦争の時代とその中で生き抜く様々な人間たちの群像を描き出し、まさに加賀版『戦争と平和』の趣がある大河小説だ。同じくらい大規模なその続編『雲の都』(全五巻)は加賀の分身ともいうべき人物を中心に、1952年に始まり2001年までのほぼ半世紀の戦後日本をカバーする。>

 加賀さんの、後半の小説『永遠の都』「雲の都』も全く読んでいない。この頃、加賀さんは本郷の「本郷ハウス」に住んでいたのであろうか。加賀さんの仕事は、たとえば大江健三郎とはどう違うのだろうか。(大江健三郎は、1935年生まれだから、加賀さんのほうが6歳も年長なのだ。)

 <加賀氏はこのように、科学(医学)と宗教の両方に深く通じながら、言わば日本人離れした骨太の文学の世界を築いた。主義主張の面では、強い信念をもった死刑囚反対論者であり、また「脱現発社会をめざす文学者の会」の発足に尽力し、日本ペンクラブ副会長としても活動した。しかし、気難しい堅物では決してなかった。私は最晩年に少しだけお付き合いがあったが、私にとって加賀さんはこの世の美しいものをこよなく愛し、年少の友人たちと談笑することの好きな、そして茶めっ気もあるお爺ちゃんだった。いまごろ天国でフランスやロシアの文豪たちと美酒を酌み交わしているのではないだ老化。>

 最後の件で、なぜ沼野さんが加賀さんの追悼を書いたのかが分かった。晩年に接点があったのだ。加賀さんの小説を読み返してみたいと思う。

<コメント>
 標題の沼野さんの寄稿文を全文引用しながら、勝手に感想とコメントを追加しながら読んでみた。面白かった。全文引用手法は、高橋源一郎さんの方法を真似した。感銘を受けたり感心した文章は、全文引用がとても役に立つのである。沼野さんありがとう。