TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『田舎教師』(田山花袋)を読み終えたー上州の空っ風がこころを吹き抜けた

 『田舎教師』(田山花袋)を読み終えた。上州の空っ風がこころを吹き抜けたような気持ちが読後に残った。日露戦争の戦勝の記念日に薄幸のひとりの青年がなくなった。『田舎教師』は田山花袋の若き日の姿で、のちに上京して作家になるという志を遂げるのかと勝手に思っていた。大違いであった。むしろ、『蒲団』で自然主義文学の旗手となった花袋が、書きあぐねながら歳月を経て書き上げた作品なのだった。もっと、早く若い日に読んでおけばよかった。読みながら、利根川の川風のふく風景、「そうだんべ・・」等々の懐かしい上州弁が散りばめられていたのが響いた。
 主人公・清三には、実際に羽生の近くで代用教員をつとめていた小林秀三という実在のモデルがいたのだった。

田山花袋の文壇的回想記『東京の三十年』(1917年6月、博文館)に、『田舎教師』の執筆についての詳しい記述がある。1904年(明治37年)3月から9月まで、花袋は博文館から施設第二群写真班主任として日露戦争に従軍していた。帰国後まもなく妻リサの兄で詩人の太田玉名が住職を務める羽生(現・埼玉県羽生市)の建福寺を訪ね、真新しい墓標を目にする。かつてこの寺に下宿していた、三田ヶ原弥勒小学校教員・小林秀三が、遼陽陥落の日に結核で世を去った、という。享年21歳だった。>

<玉名の手許には、彼(清三)の中学時代、小学校教師時代、死ぬ年1年の日記も残っていた。その日記に、「志を抱いて田舎に埋もれて行く多くの青年たちと、事業を成し得ずに亡びて行くさびしい多くの心とを」花袋は発見する。>

<日記を見てから、小林秀三君はもう単なる小林秀三君ではなかった。私の小林秀三君であった。」「かれの眼に映ったシーン、風景、感じ、すべてはそれは私のものであった。私は其処の垣の畔、寺の庭、霜解けの道、乗合馬車の中、到る処に小林君の生きて動いているのを見た」と書く。>

 小林秀三の「日記」をみた花袋のこころに動くものがあった。かくして、書きあぐねていた歳月を経て,世に問うたのが『田舎教師』であった。早世した小林秀三君は、花袋の筆の力によって生きなおしたのではなかったろうか。