TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 私の「医人」たちの肖像~(151)長与健夫さんと「江戸中期の医師たち(中)ー静かな文化革命の推進者」(「日本医事新報」No.3712、1995年6月17日)

(151)私の「医人」たちの肖像~長与健夫さんと「江戸中期の医師たち(中)ー静かな文化革命の推進者」(「日本医事新報」No.3712、1995年6月17日)

 長与健夫(愛知県がんセンター名誉総長)さんとは直接の面識はなかった。しかし、著名な長与専斎・長与又郎という医家系譜の方なので私のシリーズ<「医人」達の肖像>に取り上げたいと思っていた。長与健夫さんは長与又郎さんの四男である。長与又郎さんは腫瘍学(胃癌?)が専門であった。逝去の後に日本癌学会の中に「長与又郎賞」という腫瘍病理学者を顕彰する賞が創設されている。子息の長与健夫さんも消化器腫瘍学(胃癌)が専門だった。記憶では1980年代の初めに「医学界新聞」の新年掲載」新春随想」を執筆いただいた記憶がある。バックナンバーの目次を探したが未だ見つからない。
 医学書院発行雑誌「胃と腸」の編集会議あるいは「胃と腸大会」という研究会で私は長與健夫先生の講演を聞いている。細面の厳しいお顔の方だった。長與健夫さんは2007年(平成19年)10月12日に86歳で逝去された。16年前のことでありつい最近のことだ。

 インターネットで検索した。医学雑誌「胃と腸」(43巻11号、2008年10月)に中村恭一さん(東京医科歯科大学教授)が「長與健夫先生を偲ぶ」という追悼文を寄稿していた。中村恭一さんの追悼文の触りを引いておく。

 <長與先生は早期胃癌病理学の基礎を築き上げた数少な1人であり、われわれ消化器疾患の臨床・病理を学ぶものにとって忘れてはならない病理学者です。すなわち、世界において胃の粘膜内癌あるいは早期癌についての症例報告は1935年頃から散見されますが、1950年から多数症例に基づく早期胃癌の病理組織的研究がなされるようになったのは日本においてであり、長與先生は数少ないその先駆者の一人で、胃粘膜内癌あるいは早期癌の多数症例を用いて病理組織学的に解析を行い報告しています。・・・・・・その後、長與先生は数多くの胃癌に関する先進的な病理組織学的研究を発表していて、1976年には日本病理学会で先生の研究の集大成である宿題報告「胃癌発生に関する組織学的、実験的研究」を報告しています。>
 さらに検索すると「胃と腸」誌の同じ号にもう一人、渡辺英伸さん(新潟大学・病理・細胞診センター)も「長與健夫先生を偲ぶ」という追悼文を寄せている。
 <・・・・先生対する私の印象は”品格「ある先生、学問に飽くことなき、童心のような好奇心を持ち続けれられた先生”です。おいくつになられても、童心のような学問に対する情熱は衰えることなく、消化管腫瘍の問題点を鋭く指摘し、それを掘り下げるお姿勢に感服いたしました。>
 やはり私の記憶の通り、長与さんは胃癌腫瘍病理学専門だったのだ。ここでもう一つ長与さんの医史学あるいは医学師史における関与に触れておきたい。資料を検索していたら標題に示した「江戸中期の医師たち(中)―静かな文化革命の推進者」(「日本医事新報」No.3712、1995年6月17日)というエッセイがでてきた。(中)なので(上)と(下)が別にあるのかもしれない。まずは(中)の中身を記憶と記録のために概要を紹介しておきたい。この文章を読むことで日本の稀有で優れた医の家系としての長与家が見えてくる。

「江戸中期の医師たち(中)―静かな文化革命の推進者」■
 読みながら、要点を引用メモしておきたい。
長崎通詞の役割
「通詞」って「通訳」のことだよね。長崎だからオランダ語の通訳だろう?江戸時代の鎖国のときに開かれ窓は「長崎」だけだった。三代将軍家光の時代に平戸から移った長崎出島の商館には異国人との交渉に当たる世襲制の「通詞」がいた。通詞は通訳だけでなく貿易の事務や交渉も行った。
 1745年(延亮2年)に、西善三郎、本木良永、吉野耕牛(通詞)が蘭書解読の許可を幕府に願い出た。
 吉野耕牛享保9年~寛政12年、1724~1800年):オランダの医書を理解して、それを医療に役立てようとした。前野良沢杉田玄白大槻玄沢蘭学を志す医師)、三浦梅園(1723年~1789年)も吉野に師事した。通詞の職業は若年の稽古通詞から始まり年を経て次第に位が上がるが商館長と共に江戸幕府随行する大通詞にはなかなかなれない。その大通詞に耕牛は25歳でなっている。
 山脇東洋:1706年(宝永2年)2月1日~1762年(宝暦12年)12月1日;江戸時代の医学者。人体解剖を幕府の医官としてはじめて行った。山脇東洋が京都で初めて腑分けを見て、漢書にある解剖図の誤りに気づき『蔵志』の刊行を1754年(宝暦4年)に思い立った。
 合田求吾(1723、享保8年11月14日~1773、安永2年4月12日):江戸時代中期の医学者。吉野耕牛、芦風兄弟に、長崎でオランダ内科学を学んだ。三カ月の滞在で『紅毛医言』と題して全五冊の日記風な医書にまとめた。耕牛らが何を原書にして講釈していたかは記録に無い。当時の蘭書のリストからゴルテルの内科書が含まれていたと推察される。オランダ内科学受容の端緒か?
 永富独嘯庵:(享保17年~明和3年、1732~1766)は山脇東洋の弟子で異彩を放ったが35歳で早世した。東洋に古医方を学んだ。長崎に行き耕牛について直接オランダ医学の神髄を聞き、翌年それを『漫遊雑記』に書き留めた。『解体新書』のでる10年まえに病理解剖の重要性を書いている。
 長崎の和蘭通詞で江戸中期に医療の向上に貢献した複数の人がいる。
楢林鎮山:パレの書を翻訳して『紅夷外科宗伝』を著した。楢林博太郎博士(順大名誉教授)の先祖だ。
西玄哲:杉田玄白にオランダ外科をおしえた。
楢林栄:鎮山の子で多くの門人を養成した。
『解体新書』の刊行とその後
杉田玄白享保18年~文化14年;1733年~1817年)
前野良沢
中川淳庵(元文4年~天明6年;1739年~86年)
桂川甫周(宝暦元年〜文化6年;1751年~1809年)
上記の四名がオランダの解剖書であるクルムスの『ターヘル・アナトミア」(1722年刊)の翻訳にとりかかる。『解体新書』の刊行は1774年(安永3年)である。(吉村昭の小説『冬の鷹』に前野良沢杉田玄白のことが書いてある)
建部清庵(正徳2年~天明2年;1712年~82年):大槻玄沢の師。江戸で蘭方外科を学んだ。杉田玄白と交流があり、清庵と玄白とのやりとりが『和蘭医事問答』として刊行された。
大槻玄沢:江戸で天明6年(1786年)私塾「芝蘭堂」を開いた。
宇田川玄随(宝暦5年~寛政9年;1755年~97年):ゴルテルの内科書『簡明内科治療方』の翻訳にとりかかる。宇田川玄真(明和6年~天保5年; 1769年~1834年): 文化2年(1805年)に『医範提綱』に著した。

 <追記>

 メモ書きしながら「江戸中期の医師たたち」を読んでみた。まとまったものを読んでみたい。本になっていないだろうか。江戸中期の医学に従事した者たちの名前と生きた年代を一覧にしたものはないだろうか。

 さて、本日は義父(TT)が書き残した富永家の系図に触れておきたい。長与俊達との繋がりである。

長与俊達のこと
 長与俊達(ながよしゅんたつ):寛政年(1790年)頃〜安政年2月26日(1855年4月12日)。江戸時代後期の医師。日本で牛痘法による種痘に成功した先駆者の一人。肥前国大村藩侍医長・長与俊民の二男。8歳のときに天然痘に罹患して死去した兄の衣服を身にまとい種痘(痘衣法)を受けて天然痘の免疫を獲得した。文化7年(1810年)俊民より家督を相続して藩医となる。俊達には四女と二男あり(長男は夭逝、二男は養子(通全)。長女タネの夫(娘婿)長与中庵
(1)  長与俊達の長女タネと中庵には一男二女が生まれた。 

タネと中庵の長男が長与専斉

長与専斉と妻(園子)との間に五男二女が生まれた。長男称吉(医師となり、胃腸病院をつくる)。長女保子(松方巌と結婚)。二男程三(茂木へ、貿易商となる)。三男又郎(医師となる、東大総長になる)。四男祐吉(岩永へ、同盟通信社長となる)。二女・   (平山)。五男長与善郎白樺派の小説家となる)。

 (2) 長与俊達の三女マサ(政)が富永快左衛門と結婚。

 富永快左衛門は大村藩の家老浅田弥次衛門の実弟で取締役。快左衛門は元治元年(1864)暗殺された。それで子が独りしかいない?「もう一つの維新史--長崎・大村藩の場合--」   (外山幹夫、新潮選書)に詳しい。

マサと富永快左衛門の間に一女コウ(俗名クメ)あり。
コウが大串五左衛門と結婚。

コウと大串五左衛門との間に四男四女が生まれる。シモ(友子)が大村家を継承する。寅次郎➡︎富永を継承。ナツ(浜子)、代三郎(夭逝)、範四郎(夭逝?)、若子:大串家を継承(大串健吾ー健太郎、さほ子)、治子。二男寅次郎が富永を名乗る。
富永寅次郎がキミ子と結婚。(寅次郎が私の妻Y子の祖父):

六男、一女が生まれる。
長男:KT(習志野に在住していた)
二男:ST(夭逝か)
三男:MT(修善寺に住んでいた。画家)
長女:ST(埼玉県毛呂山に住んでいた。)
四男:TT(植物病理学者。元新潟大学農学部教授)⇦義父(TT)
五男:ST(若くして逝去)
六男:RT(修善寺に住んでいた。)

 上述系図を見ると長与俊達の長女タネの家系から長与専斉⇒又郎、善郎へ。三女マサの家系から娘(コウ)を経て富永寅次郎(祖父)⇒TT(義父)が生れている。富永家の家系は長与俊達の娘の家系から分かれている。母方からの継承で繋がりは薄いが四世代を遡ると江戸末期で長与俊達に繋がることがわかる。長与先生も母方(タネ)女系からの継承である。上記の記録は義父(TTが1987年(昭和62年)12月31日付けで作成した系図(コピー)を発見したことから記憶と記録のために書いた。