本日は朝からゆっくりしていた。洗濯物をほして、布団を干してから、レンコンのきんぴらを作った。午後に漸くSSさんへの返信メールの草稿を書いた。記憶と記録のために掲示しておく。資料を探していたら「ユリーカ」特集=チェーホフ(1978年)がでてきた。この特集に旧知の旭季彦さんが「何故サハリンにいったか」を書いていた。読んでみたい。この特集でチェーホフの「敵意」がわかるかもしれない。
(以下は、記録として)
先日はメールを有難うございました。「拙文」をお読みいただき、それに関連してコメントを頂戴いたしました。
「ご引用の中に敵意という言葉がありました。これいかなる敵意かお考えを聞かせていただけたら嬉しいです。それを呼ぶために私見を述べます。」
との問いかけに対して私にはお応えすることができませんでした。というのは今回、医師の高橋さんの「チェーホフの『発作』―共感する能力―」を読んだときに、数年前に読んだ中村健之介さんの『永遠のドストエフスキー 病という才能』の中のコラムの一つ「ドストエフスキーとチェーホフ」を思いお越し、記録してある読書メの中から「ああ、こういう見方もあるのか」と思って引用したのが、件の「チェーホフの作品の底に得体のしれない敵意のようなものも感じるようになったからである」でした。この「敵意」について、不見識にもというか恥ずかしながらも、私には「いかなる敵意」であるのか述べることができません。そこで、中村さんの本を以前も借りた稲城図書館にリクエストし借りてきて再読してみました。次のようなことも書いてありました。
<チェーホフの文学はどうにも直しようのない人間に対する、かれらのやりきれない存在に対する、幾重にも包まれたあきらめと敵意から生まれてきているように私は感じる。かれの作品の滑稽は笑えない。>
ここにも「敵意」という言葉が使われています。中村さんに直に「いかなる敵意か」お聞きしたいところですが、今となっては叶いません。
今回、先のメールで城田先生がご指摘なされた次の考え方ーー
「ドストエフスキーの文学とは何でしょうか。人間の実存、不条理、残酷 などに苦しむ人に何らかの慰めを与える力がある。福音書のようなところがある。向こうにある灯火、慰みを振りまく。(若者たちはそれにすがろうとする。)チェーホフには全くない。唯苦しみを描出するだけ。敵意があるとしたら、向こうにあるかもしれないかすかな灯火、慰めの振りまく文学に対する否定のようなものがある。」
--が当たっているように思います。
これまで私はチェーホフを殆ど読んでこなかったのですがこの機会に改めて読んでみたいと思った次第です。今回は図書館に中村さんの本をリクエストして借りて再読してからお返事メールを書いたので遅くなってしまいました。件の中村さんの「中公新書」を読んだとき(3年前)の読書メモを添付します。
それでは、「ハザール」の校正が出るのをお待ちしています。寒くなってきますので、ご自愛ください。
11月30日 富永悳夫