TomyDaddyのブログ

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「私のC型肝炎物語」第5章:MSD社の治験に参加―(7) 治験服薬しながら平戸に行ってきた!

(7) 「私のC型肝炎物語」 第5章: MSD社の治験に参加 治験服薬しながら平戸に行ってきた!

 

MSD治験の6~7週目が始まった。治験服薬全12週間の中頃だった。その頃、5泊6日の北九州平戸旅行と義母Hさんの緊急入院が重なってしまった。

■治験6~7週目■

  • 2015年5月20日(木)~6月2日(火):

(44) 5月20日(水):服薬8時35分。起床7時30分。朝食8時00分。昨夜は夜3回トイレに起きた。明日からの九州旅行前に、日本PENクラブの校正を完了した。その後で平戸旅行の福岡空港からの車ルートを調べ、午前中に荷物も纏めた。昼食はY子の作ってくれたアンチョビパスタを食べた。一休みして14時20分頃から王禅寺の旧居へ行く。

■服薬しながら4泊5日の平戸旅行■

(45) 5月21日(木):服薬7時50分。起床7時10分。朝食7時30分。本日から4泊5日の九州旅行へ行く。体調に変わりない。家を8時47分に出発した。新百合ヶ丘、登戸、川崎経由で羽田に10時頃に着く。11時20分発のJAL便で13時25分に福岡空港に着いた。福岡空港のタイムズレンタカーは空港の第一ターミナルの反対側にあり、徒歩5分くらいだった。松田のデミオ(1300㏄)を借りる。13時50分にタイムズを出発した。一般道202号を走り15時45分頃に唐津虹ノ松原国民宿舎に到着した。午後17時から30分間くらい落葉松林と海岸砂丘を二人で散策した。18時30分からの夕食には烏賊の刺身がでた。透明なきれいな刺身でとても美味だった。私がジンジャーエール、Y子はカシスオレンジを飲んだ。大浴場がなかったので内風呂に入る。TVを少し見て早めに床に就いた。

■平戸の脇川ホテル泊■

(46) 5月22日(金):服薬8時8分。起床6時30分。朝食7時30分。一休みして9時10分頃に出発する。まず唐津城に行った。勇壮な大きな城だ。そのあと近くの旧高取邸に行った。高取邸は、杵島炭鉱など炭鉱主として知られる高取伊好(1850年~1927年)の邸宅である。高取邸を11時30分頃に出て、海沿いにある玄海温泉へ向かう。車のナビに従って、唐津から鳴子を経由する国道204号を、海沿いから山道を抜けて言海に行く。40~50分で到着する。海岸に作られた温泉に入ってから隣の建物で昼食にした。玄海を4時過ぎに出発した。一般道から幹線道路に出る交差点で、一時停止を怠り佐賀警察に捉った。7000円の反則切符を切られる。記録を見ると、佐賀県唐津市竹木場5382番地で14時16分頃だった。15時過ぎに伊万里に着いた。15時15分~16時15分頃まで伊万里焼きの里を見学する。伊万里を16時30分頃に出発して17時30分頃に平戸の脇川ホテルに到着した。レンターカーの旅も身体には問題はなく疲れもそれほどなかった。この日にビール中瓶1本を二人で初めて飲んだ。

(47) 5月23日(土):服薬7時55分。起床7時5分。朝食7時30分。平戸の脇川ホテルの2泊目だ。7時10分頃に朝風呂に入る。9時15分頃にホテルを出発した。生月大橋を渡って生月島へ行った。10時頃には生月島の北先端の灯台の近くに着いた。車を置いて散歩した。オオバエ灯台に11時15分頃に着いた。灯台のあとで山田教会へ立ち寄り、近くの食堂でラーメンを食べてから平戸島に戻った。車のナビを頼りに薄香漁港に着いたのは15時30分頃だった。ここは高倉健と田中裕子の映画「あなたへ」のロケ地で有名である。駐車場に車を止めて漁港周辺を散歩する。ロケ地を歩いてゆくと映画に出ていた冨永写真館があった。薄香漁港を後にして平戸城に行く。既に夕方であったので平戸城はざっと見学に止め、17時20分頃ホテルへ戻った。

■武雄の御船山ホテル泊■

(48) 5月24日(日):服薬8時5分。起床7時00分。朝食7時30分。武雄の御船山ホテルを9時15分頃に出発した。その後で田平教会へ行く。田平教会は、所在地にちなんで瀬戸山天主堂とも呼ばれている。田平教会を30分ほど見学してから9時55分頃に出発した。

車のナビを頼りに「遠藤周作文学館」に向かった。かなりの距離があり海沿いの道を迂回する方向にあるので無事に着けるか心配した。幸いに迷うこともなく遠藤周作文学館に11時55分頃に到着した。そこは遠藤周作の小説の舞台でもある長崎の海を見下ろす高台の海岸沿いに位置していた。文学館には遠藤周作関連の年表や各種の資料が展示してあった。文学館の隣がレストランになっており昼食にうどんを食べた。日本ペンクラブのMさんが既に訪れており、Mさんから予め聞いていた情報が役に立った。文学館と道を挟んで上に「夕陽が丘展望台」があり、そこは道の駅だった。14時過ぎに夕陽が丘を出発する。途中で大村パーキングに立ち寄った。パーキングを15時33分頃に出発して16時頃にはホテルに無事帰ることができた。16時30分からホテルの周りを散歩した。夕食は19時30分~20時頃であった。その後ホテルのマイクロバスで近郊の水辺へ蛍見物に連れて行ってもらった。20時30分~21時15分位の短い時間であったが幻想的な蛍の乱舞を楽しんだ。ホテルに戻ってから、ライトアップの明かりを頼りに御船山ホテル周囲の散歩道をY子と散策した。この日に義母が横浜総合病院に入院したと、妹から電話連絡があった。尿路感染による高熱であった。旅行中なので妹に対応してもらった。大事には至らぬと確認して、残り1日なので予定通りに旅を続けた。

■最終日―武雄温泉から大宰府へ■

(49) 5月25日(月):服薬8時10分。起床7時00分。朝食7時30分。九州旅行の最終日である。9時9分頃から御舟山ホテルの裏山を1時間ほど散策した。御舟山ホテルの裏山一帯は、管理保存してある。午前10時前にホテルを後に武雄温泉の楼閣に向かった。車のナビが上手く案内してくれなくて、直ぐ近いはずなのだが迷って15分位かかった。武雄温泉はこちらが中心街であり、各種の温泉施設が並んでいた。武雄温泉を11時20分ころに後にした。長崎天満宮を車のナビに入れて長崎自動車道路から九州自動車道へと走った。長崎自動車道長崎市の中央部近くにまで行って、途中から九州自動車道に結ぶ道だった。途中の大村湾パーキングで休憩した。そこは大村湾を臨む海岸沿いに位置し大村湾がよく見えた。大村湾は大きく突き出した半島に囲まれた大きな湾だ。T家の祖父の出身が大村である。当初は大村に一泊したかった。しかし、福岡からは遠いので諦めた。結果的にみると武雄ではなく大村に泊まっても大丈夫だったようだ。大宰府には13時27分に到着した。駐車場を捜すのに手間取ったが、天満宮の近くに無事に止められた。大宰府天満宮を小一時間くらい散策する。天満宮は予想以上に大きくきれいであった。観光客の多くは韓国人のようだ。13時20分に天満宮を後にして一般道を利用して14時10分ころに福岡空港の松田レンターカーに戻った。15時には空港でチェックインした。17時のフライトで18時20分に羽田へ着いた。羽田から19時10分発の高速バスで1時間後には新百合ヶ丘へ戻った。

■留守中に車のバッテリー上がり■

(50) 5月26日(火):服薬9時12分。起床7時30分。朝食8時00分。暫く留守にしたので横浜総合病院へ義母の見舞いに行くことにした。朝食後に車の窓を拭いておこうとして車のドアを開けて窓を開けようとしたが作動しない。嫌な予感が現実のものとなった。旅行中にバッテリーが上がってしまっていた。すぐに出光カードのレスキューに電話した。午前10時過ぎには修理に来てくれた。バッテリーの急速充電をしてもらったが、一度ゼロ放電してしまうとバッテリーが長くはもたないと言う。パナソニックの新品に交換した。バッテリー(CL/N-80D23L)は、交換作業量(540円)を含めて3万758円であった。10時45分に家を出て横浜総合病院にお見舞いに行った。義母は幸いに元気そうであった。お見舞いの後であざみ野のレストランでパスタの昼食を摂った。その後14時50分頃には王禅寺の旧宅に行った。雨戸と窓を開けてから、庭の草取りを30分間くらい行った。Y子は王禅寺団地のIさんのお宅に行ったが、留守で直ぐに帰宅した。1時間くらい仮眠してからはるひ野の自宅に帰った。

(51) 5月27日(水):服薬9時12分。起床7時23分。朝食8時00分。昨日、母を見舞い状況は大丈夫と判断して、PENクラブの例会(15時から)に出席のメールを出しておいた。午前中に庭の花と野菜へ水をやり、その後で1990年代の日録をまとめた。午後13時過ぎにはるひ野駅発で永山へ行く。永山で京王線に乗り換えて都営新宿線茅場町へ行った。ペンクラブには14時38分頃について、17時前まで電子文藝館の委員会に出席した。SM委員長(代行)の最終例会に参加できた。今回も懇親会には参加しないで帰路につき、18時頃には新百合ヶ丘へ着く。18時頃にビブレでパンを2個買って食す。その後スポーツセンターに行って合気道の稽古に参加した。本日はSH師範の指導日であった。得るものが大きかった。今日は朝から夜まで長い一日であった。体調はかなり回復していた。

(52) 5月28日(木):服薬8時15分。起床7時00分。朝食8時45分。妻のY子が柿生の喫茶店で英語の仲間と会うので、二人で11時前家を出発した。柿生駅の手前で道が渋滞していたので、世田谷通りとの交差点の手前でY子を車から降ろした。私は新百合ヶ丘へ行って横浜銀行で預金の処理をした。そのあと生協で味噌と鯖寿司を買って王禅寺の旧家に行って一人で遅い昼食にした。午後13~14時頃までは食休みをした。Y子も英語から帰ってきて片付けをしていた。15時頃からY子は横浜総合病院へ母の面会に行く。私はその間に庭の草取りをした。16時過ぎにはY子が戻ってきたので、二人で17時30分頃には、はるひ野に戻った。二人とも疲れてしまったので、夕食は近くのイタリアンのサイゼリアで簡単に済ませた。

(53) 5月29日(金):服薬7時45分。起床7時。朝食7時30分。本日は会社の先輩のTさんと京王線の堀之内で11時30分に会う約束をしていた。妻のY子は午前10時前にはるひ野小学校の体操に出かけた。私も10時20分ころに家を出た。京王線若葉台駅まで歩いて図書館で本を返却してから、11時9分発で行くと8分位で堀之内に着いた。駅前からバスに乗ってTさん推奨の蕎麦屋へ行く。よもやま話をしてから二人で蕎麦を食べた。エビスビールの中瓶を二人で一本飲んだ。I書院の70年史、著作権管理の会社「JCOPY」の人事のことなどが話題に出た。11時40分~13時30分位の短い会食だった。帰りは駅まで歩いた。駅の近くで雨が降ってきたので別れてしまった。

■孫のJ君の運動会へ行く■

(54) 5月30日(土):服薬7時22分。起床7時10分。朝食7時20分。本日は孫のJ君の海老名小学校の運動会である。駅を7時57分発で出発して、新百合ヶ丘で乗り換えて海老名に8時49分に着いた。1年生のJ君の徒競走は4番目とのことだ。走っている時にはJ君の姿がわからなかった。午前中にはもうひとつJ君がでるダンスを見た。11時45分頃に日陰を求めて玄関わきのアプローチに陣取ってみんなで昼食を食べた。三種類のお握り、鶏肉のから揚げ、枝豆、煮物、そのほかであった。「大玉運びも見てほしい」とJ君がいうので、2時30分頃の大玉運びまで見てから帰路についた。15時頃に海老名小を後にした。駅前の丸井でアイスクリームを食べて一休みした。疲れてしまったので夕食のお弁当を購入した。17時30分頃に帰宅して、トマトの世話、植物に水やりをしてから入浴した。夕食にはY子と350㏄の発泡酒を1缶飲んだ。疲れもあり鬱的になる。21時30分には床に就いた。

(55) 5月31日:服薬7時55分。起床6時45分。朝食7時10分。朝から天気がよいが昨日ほどではない。昨夜20時過ぎに大きな地震があった。小笠原諸島震源マグニチュード8.5とのことだ。ここ川崎市麻生区でも大きく揺れた。

(56) 6月1日(月):服薬7時25分。起床7時5分。朝食7時47分。5月24日(日)に義母のHさんが横浜総合病院に入院してから1週間が経過した。担当医師の徳山承明先生から入院後の経過の話をしたいからとのことで、本日11時の予約をしていた。9時半過ぎにY子と家を出た。10時45分頃に王禅寺の旧宅に行って窓を開けてから横浜総合病院に行った。午前11時20分頃に、病院4階内科病棟の部屋(410号)の前で徳山先生と話をした。やはり尿路感染から耐性大腸菌が検出されているとのことであった。部屋に母を見舞うと「寒い」という。ナースに相談すると、「布団は重くてこれ以上かけられない。軽い毛布かタオルケットを持ってきて欲しい」、という。王禅寺の旧宅に戻ってタオルケットを持って病院に戻った。母の見舞いを済ませてあざみ野の寿司屋「銚子丸」でY子と昼食にした。14時頃には王禅寺の旧家に戻って少し休んだ。車でY子だけが先にはるひ野の家に戻った。私は王禅寺で1時間ほど読書してから庭の草取りを1時間ほどした。歩いて新百合ヶ丘へ行き電車で17時30分頃に帰宅した。

■治験開始後6回目の通院日■

(57) 6月2日(火): 服薬10時32分。起床5時45分。朝食7時40分。本日は治験開始(4月7日)から第6回目の通院日であった。これまで4月7日、14日、21日、5月8日、19日と合計で5回通院していた。何時ものように午前5時45分に起床。食事はとらずに6時5分に家をでた。6時18分頃に若葉台駅に着いた。7時16分頃に新宿駅についた。アコルデ北館の地下一階カフェでモーニングコーヒー(トースト、ハム、卵、サラダ)の朝食をとる。その後で大江戸線新宿西口駅から本郷三丁目に行く。東大病院には8時20分頃に着く。総合受付をして2階の治験の受付けには8時35分に到着した。直ぐに担当の永井さんと面談して治験手帳、薬ケース他を渡した。8時45分頃に永井さんと23番の検査室へ採血に行った。採血は混んでいたが、治験は番外なので5分くらいで採血は終了した。再び治験の部屋に戻り30~40分くらい本を読みながら待機する。9時40分頃には採血の結果がでた。内科診察室246号に移動する。浅岡先生の診察となった。血液検査結果は前回よりもさらに下がっていた。AST、ALT、γ-GTP〉は26、17、28という結果だ。この数値を昔の数値と比べるとHCVキャリアの判明頃した頃(1998年)よりも低い。私のHCVはたぶん排除されつつあるのだろう。この日の採血によるPCR検査で、「HCV-RNAはケンシュツセズ」と記載されていた。検査と問診が終わり、病院で服薬をして終了となった。治験なので支払いはない。おまけに、後日いくばくか治験謝礼(交通費程度)が振り込まれていた。午前11時頃には全てが終了して帰路に就いた。12時10分頃には若葉台駅に着いた。

(2018.12.4)

(「私のC型肝炎物語」 第5章: MSD社の治験に参加― 〔7〕治験服薬しながら平戸に行ってきた!)