TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「私のC型肝炎物語」第5章:MSD社の治験に参加― (10)義母が逝った翌々日に治験が終わった! 

(10) 義母が逝った翌々日に治験が終わった!

 

■治験服薬最後の6日間■

  • 2015年6月24日(水)~6月29日(月):

(79) 6月24日(水):服薬:8時18分。起床は7時5分。朝食:7時30分。午前中は小田急カードの請求書チェック。午後も銀行口座関係を整理した。現役中はこれらの仕事は全て妻に任せきりであった。夕方から歩いて都民生協とサンドラッグに買い物に散歩を兼ねて行ってきた。

■学生時代の旧友RH君が早世した■

(80) 6月25日(木):服薬8時24分。起床7時05分。朝食7時45分。本日は妻のY子は柿生の英語に参加した。Y子が歩いて柿生に向かったので少し遅れて追いかけた。途中でY子を車で拾って柿生へ行く。その後で10時45分頃には王禅寺の旧家に着いた。『エイズ疑惑』という本を読んだ。また、1985~1988年頃の「週刊医学界新聞」の合本を見直した。エイズ関連で米国立癌研研究所(NCI)のロバート・ギャロ博士へのインタビュー、Nature誌アラン・アンダーソン氏にインタビューをしたのは、共に1984年秋であった。1985年には、日本ウイルス学会、日本輸血学会等でAIDS関連の取材を行い、エイズ報道の記事を纏めていた。  午後18時頃、麻生中学での合気道の稽古に参加するために生協辺りを歩いて居ると北大空手部の友人のJA君から電話があった。同期のRH君が亡くなったとのことであった。北大空手部時代にRH君には大変お世話になった。空手部同期で彼が法学部で私が文学部で、二人だけが文科系だったので親しくお付き合いした。RH君は現役の弁護士だったので、北海道新聞に訃報が載っていたらしい。もう一人の同期のHF君が札幌を訪れているとのことであった。

2006年9月の初めに札幌出張した折には、金曜日の午後に東大を受診しインターフェロン注射をしてから札幌に飛んだ。その夜に、雑誌「糖尿病診療マスター」の編集会議があり出席した。

編集会議のあとで編集委員及び担当のSOさんらと呑んだ。一人になってから札幌ラーメンを食べてホテルに戻った。ホテルに戻ってから気持ちが悪くなって吐いてしまった。その時は、私の出張業務の終了日に併せて、妻のY子が遅れて別便で札幌にやってきた。出張計画では、翌日午前中の飛行機で帰京であった。実際は、仕事を終えた翌々日も札幌に泊まることにして、バスで旭川旭山動物園に初めて行った。旭川市内に弁護士事務所を持っているRH君へ、旭山動物園から電話した。この時が、電話ではあるが、彼と直接話した最後であった。

(81) 6月26日(金):服薬8時42分。起床7時10分。朝食8時10分。治験服薬の終わるまであと少しになった。

■PEG-IFN治療再考■

9年前のペグインターフェロン(PEG-IFN)治療の頃を思うと夢のようである。蛇足になるが、ここでPEG-IF治療を振り返る。PEG-IFNに挑戦したのは2006年の夏のことである。I書院の役員になって3年目であった。当時、PEG-IFN治療には初期の入院が必須であった。会社の夏休みとお盆休みを利用して挑戦した。

PEG-IFN治療は、副作用(白血球、特に好中球減少)が著しかった。かつ、ウイルス減少は得られなかったので、途中で中断となった。この数年後2009年頃に、ウイルス遺伝子の型により、インターフェロンが効くタイプと効かないタイプがあることが明らかになった。これが、「IL28B遺伝子多型解析」である。

さらに、C型ウイルス肝炎のリスクは年齢因子も大きいと言われていたそこで、五十歳代の内にインターフェロン治療に挑戦したほうが良いと自己判断して無理を承知で行った。そのうえ私は禁酒が出来なかった。私がHCVキャリアであり、インターフェロン治療中であることを、勤務先では直属上司を除いては誰にも伝えていなかった。弱点を他人に知られたくなったのだろうか。結果論であるが、私は無謀で無駄な悪あがきを行っていたことになる。

■義母の急変と逝去■

  • 2015年6月27日(土):

(82) 6月27日(土):服薬8時10分。起床7時10分。朝食7時40分。午前中は自宅でパソコンをしていた。11時45分に家を出て合気道の稽古に行った。夕方からは多摩センターのイオンへ映画「愛を積む人」を観に行こうとY子と約束していた。合気道から急いで15時30分前には帰宅した。すると、「少し前に青葉ヒルズから電話があった」と、Y子がいう。電話は以下の内容であった。

「義母が数日前から便秘をしていた。そこで本日、看護師さんが摘弁をしたところ大量の便が出て、血圧が急激に下がってしまった。そのため下半身(足部)を上げたところ、今度は血圧が急激に上がり、200を越えてしまった。救急車の出動を要請している。搬送先がきまったらまた連絡をします。」

「病院にまた行くことになるから、今のうちに休んでいてほしい」と、Y子がいうので、私は2階のベッドで仮眠をしていた。そうこうしているうちに青葉ヒルズのTさんから電話があり、「搬送先が昭和大学藤が丘病院決まった。直行してほしい」、とのことであった。

出かける準備を玄関先でしていたら再び電話があった。「救急車の中で心臓が止まってしまった。蘇生術を施すか」と尋ねられた。「これ以上の救命措置は本人も望んでいなかったので、止めてよいと思う」と、Y子と相談して応えた。

急いで車で出発した。はるひ野―黒川―柿生―藤が丘を経由して昭和大学藤が丘病院に午後17時頃に着いた。救急の待合室で20分位待機していた。17時少し過ぎに、救急のドクターから説明があると言うので、救急救命室の個室に入る。ベッド(ストレッチャー)の上の母は既に心肺停止状態であった。医師がこれから確認しますと言って、小さな電灯で瞳孔反射、脈拍をみて、午後17時15分に死亡の確認が告げられた。形式上の死亡肪時間は17時15分でとなった。しかし、母はそれよりも1時間近く前に救急車の中で息を引き取っていたのであった。

青葉ヒルズからは、RIさん(52歳)が付いて来てくれていた。結局、母は救急車の中で死亡してしまったので、検死(警察官の検査)が入ると言う。このあと警察官が救急救命室に到着するまで、30~40分くらい母の枕もとでY子と待機していた。待機中に携帯電話で三女Rと次女Yに祖母の死亡について連絡をした。Yは地元にいたが、Rは仕事で千葉県へ、「いすみ鉄道」の取材に出かけていた。

午後18時頃に横浜市青葉警察からIさんという刑事ともう一人の警察官が到着した。別室で母の病歴から青葉ヒルズに入所する頃のこと、その後の様子を事細かに聞かれた。青葉昼ヒルズのRIさんも住所、電話番号、年齢まで尋ねられていた。一方、救急救命室の母の身体は事細かに調べられていた。暴行のあとがないか、事件性を確認していたようだ。妻のY子はIさんではない警察官から廊下に呼ばれて、青葉ヒルズでの介護状況を尋ねられた。場合によっては解剖して死因の特定が必要になるかもしれない、とのことであった。「解剖の際には9万円の費用を請求することになる」と言う。これを了承した。

一方、葬儀屋さんはどうするかと尋ねられたので、生協の「ゆきげ」というサービスを利用する予定と応えた。すると、葬儀屋さんに連絡をした方がよいと言われたので、Y子が連絡をした。しばらくして、「ゆきげ」から男性職員が二名やってきた。一人はTさんといった。監察医の検死はおそらく明日になるだろうとのことであった。午後20時頃には母の遺体を「ゆきげ」の方に託した。

その後、車を駐車場に置いたままで、Y子とM子と藤が丘駅の近辺で食事のとれるところを捜した。近くの寿司屋も、イタリアンレストランも満席であった。仕方がないので、焼酎飲み屋でノンアルコールビールと摘みとお握りで夕食を済ませた。午後21時30分頃に、M子と別れて藤が丘から王禅寺経由ではるひ野へ戻った。途中、21時20分頃に、私の携帯電話に警察官から電話があった。「母の住所が王禅寺の東か西かどちらですとか」という問い合わせであった。22時少し前にはるひ野の家に戻った。

その直後に、青葉警察から電話があって、「母の死因が急性心不全と特定されたので、警察は手を引きます。あとは葬儀屋さんと進めてください」とのことであった。時計を見ると22時11分頃であった。そうこうしていると、葬儀屋のTさんからも電話があった。

「ご遺体を明日の午前10時過ぎにお連れします」と言ってきた。さらに、「点滴の後から血液が流れ出ており着衣が汚れてしまったので、ご遺体を納棺してからお連れしたほうがよいと思うがそれでよいか?」と言ってきた。そのことも了承した。そのあと風呂に入り、Y子と色々と話をしたり、告別式に使用する写真を捜したりした。結局、午前1時近くになってから床に就いた。

(83) 6月28日(日):服薬8時24分。起床7時30分。朝食8時00分。いつもよりも簡単に朝食を済ました。9時30分頃にはるひ野の家を出て、9時50分頃には王禅寺の旧宅に着いた。Y子と王禅寺の1階の掃除を急いで行った。M子も10時過ぎには到着した。三人で大急ぎで掃除をした。午前10時頃に母のお棺が到着した。初めは玄関より入れようとしたが、大きいので入れられず、結局、庭先から入ってもらった。「ゆきげ」から二人が付き添ってきた。私も手伝った。お棺はとても重かった。1階の8畳の部屋に母の遺体を安置した。8畳間にはエアコンを稼働してほしいといわれたが、リモコンのスイッチの電池が切れていたので大急ぎでユリストアに買いに行った。帰ってくるとY子とM子が葬儀のことについてTさんと相談をしていた。無宗教家族葬を行うことにした。写真は2011年頃にひ孫のJ君と一緒に写っている義母の嬉しそうな写真をトリミングして使うことにした。音楽は適当なCDを捜して持っていけばBGMで流してくれることになった。

次のような手順に決めた。7月1日(水)午後16時に準備完了、7月2日(木)午後12時から告別式、13時から焼き場へ、その間に簡単な会食をする。これらを含めて葬儀費用は87~88万円と見積もりがでた。「ゆきげ」の方が帰ってから、Y子がユリストアでパンを買ってきて三人で食事をとった。14時過ぎからは持ってきた新聞を読んだりして休息をしていた。午後15時頃に、YS,MS、J、RたちS家が一番に到着した。ミニクーパーは車庫の前に縦列駐車した。16時過ぎに次女YとM氏にRちゃんを連れて新百合ヶ丘のエルミに夕食を買いに行ってもらった。その間に私は2階のベッドで休んでいた。17時頃に、UI(M家の長女)夫妻がきた。2階から1階に降りるとI君とUとJ君がカード「UNO」で遊んでいた。17時30分頃に、三女RとKHの二人が畑で採れた胡瓜とトマトのお土産を持ってやってきた。18時少し前にYたちが夕食を買って戻ってきた。18時頃には全員が集合して、義母のお棺を開けてお参りをした。その後で、UI夫妻は帰って行った。残りの九人で夕食を食べた。20時頃にS家、H家は帰宅した。義妹M子だけはもう少しいて21時30分頃に帰宅した。SMは熱を出していて来られなかった。Y子と私は母のお棺の前に布団を敷いて22時30分頃に休んだ。

■治験最終服薬日■

  • 2015年6月29日(月):

(84) 6月29日(月):服薬は8時48分。起床は7時30分。朝食は8時10分。最後の服薬が母の逝去の翌々日になった。夜中に2回くらいはトイレに行った。目が覚めるといろいろなことを考えていた。偶然とはいえ、義母は孫たちが集まりやすい週末の土曜日に亡くなった。この機会に疎遠であった長女のNFも、M家のUIもお別れには来ることになった。

そして、本日、6月29日は私の治験服薬の最終日であった。午前8時48分に最後の服薬をした。昨夜は禁酒を解いて発泡酒一缶半を飲んだ。体調が特に悪いことはない。明日、30日は東大受診日なので最後の診察でどのような結果がでるのか不安もあるが楽しみでもある。

(2018.12.13)

(「私のC型肝炎物語」 第5章: MSD社の治験に参加―〔10〕 義母が逝った翌々日に治験が終わった!)