宗教学者の山折哲雄さんが朝日新聞夕刊に「生老病死」という連載コラムをいま執筆している。「啄木の『こころ『』に浮かぶ暗い像」(2019年1月19日)に触発されてこの小文を認めることにした。山折さんの書くものは好きで本も幾つか読んだ。「地獄と浄土」「日本の心、日本人のこころ」という2冊が手元の本段に目についた。山折さんは「こころ」の研究者(専門家)だ。件のコラムから引用する。
その頃(1909年、明治42年)に啄木は東京本郷弓町の床屋(喜之床)の2階に間借りしていた。床屋は春日通に面しており今は記念碑が立っている。かつては市電(後の都電)が走っていた。啄木は市電に乗って本郷から銀座の朝日新聞社に通っていた。山折さんは書いている。
「啄木といえば,神童のイメージだ。だが同時に、高慢、不倫の匂いも立ちのぼる。」
朝日新聞社の校正係と言えば単調でつまらぬ仕事だったろう。啄木はしばしば怠けて休んだようだ。「はたらけど はたらけど わが暮らし 楽にならざり じっと手を見る」、と歌うほど熱心な勤め人ではなかったようだ。啄木は若くして結婚する。本郷時代には妻子だけではなくて両親も呼び寄せて暮らしている。「はたらけどはたらけど・・・」は真実でもあった。啄木は貧しいと言いながらとくに函館時代などは芸者遊びなども盛んだったようだ。妻の節子との破局も、啄木の不倫の匂いと自己本位の有り様が窺える。何とも不幸な結婚生活だったようだ。
「高きより飛び降りるごとき心もて この一生を 終わるすべなきか」
啄木の生前に刊行されのは歌集 『一握の砂 』のみであった。『 悲しき玩具 』が世に出たのは死後2か月後であったという。
角川文庫「啄木歌集」(吉井勇解説)(昭和39年発行)を買い求め50年来愛読してきた。