昨日に続いて「こころ」と「心」について書く。山折さんの連載コラム「煩悩系 漱石のこころ変わり」(2019年1月19日)をまた引かせていだだく。読者に免じてご容赦ください。
「山とことばの「こころ」と「心」が、すでに千年の歴史を刻んでいたことをいった。その大きな二つの記憶の流れを、明治の幕開けに鮮やかな形でのぞかせてくれるのが、意外なことではあるけれども、夏目漱石と石川啄木だった。」
この日のテーマは、朝日新聞に連載時には漱石の小説は『心』のタイトルであったが、岩波書店から私家版で単行本として出そうとしたときにはタイトルを「こゝろ」に改めようとこころ変わりしていた、と私は思うと山折さんは言う。そして、そのこころを次のように分析している。
「(漱石が描こうとしていたのは)求心的な漢語系の『心』の領域ではなく、行方もなく散乱する和語、煩悩系の「こころ」の領分であると反省したからに違いない。」
心あてに折らばや折らむ初霜の置き惑わせる白菊の花(古今和歌集)
「こころ」という言葉を心で思っていたら上掲の歌が浮かんできた。電気も水道もない時代の日本人は(いや電気も水道もないからこそか)ひそやかな柔らかいこころをもっていたのだ。こころと言えば、郷里の詩人の「こころ」が偲ばれる。この「こころ」も山折さんの言う「煩悩系」のこころだろう。朔太郎も死後50年を超えて以下の詩が載っている「純情小曲集」は「青空文庫」で読める。
こころ
こころをばなににたとえん
こころはあぢさいのはな
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。
こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて者言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。
(萩原朔太郎)