TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像― (41 )Christopher Pallisさんと座談会「脳死の科学と倫理」~1985年6月6日(木)

(41)Christopher Pallisさんと座談会「脳死の科学と倫理」~1985年6月6日(木)

 

   1985年6月6日(木)。英国のChristopher Pallisさんをお招きして、「脳死の科学と倫理」という座談会を、東京・本郷の医学書院会議室で収録した。この企画はChristopher Pallisさん来日の機会を捉えて成立した。担当は同僚記者のKI君だったが、私も参加の機会を得た。

  「呼吸や血圧など生命活動の中枢が集まっている脳幹の死こそが脳死である」という論文 “ABC of brain stem death”を、Christopher Pallisが医学雑誌 “British Medical Journal” (1983年)に掲載して、英国で注目を集めていた。その論文を日本語に翻訳した単行本『人間の死と脳幹死』が、医学書院から1984年6月に発行されていた。翻訳者は脳神経外科医の植村研一さん(浜松医大教授・脳神経外科)だった。

■座談会:脳死の科学と倫理■

  • 1985年6月6日(木):

   座談会「脳死の科学と倫理」は、Christopher Pallisさんを囲んで、植村研一さん(浜松医大教授・脳神経外科)、Juan Masia(マシア)さん(上智大学教授・神学)、洪祖培さん(台湾大学医学院教授・神経内科)の三人に参加いただいた。日本では、「脳死」を人の死と認めるか否かの議論が、そのころ漸く緒に就いたばかりだった。そういった状況から、倫理的側面よりマシアさんに参加いただいた。台湾の洪祖培さんは、何かの学会で来日された機会を捉えたのだろう。台湾では1年前の1984年に、「脳幹死判定基準」が公表されたばかりだった。洪祖培さんは収録会場に遅れて到着したので、後半のみの参加だった。
  「脳死の科学と倫理―脳死研究の権威Christopher Pallis博士を囲んで」というタイトルで、収録した座談会を、医学界新聞・第1665号(1985年9月9日付)に掲載した。

脳死を人の死と認めて脳死を前提とした「臓器の移植に関する法律」が日本で制定されたのは1997(平成9年)のことだ。この座談会を開催した1985年から、脳死立法成立まで12年間が経過したことになる。

■Pallisさん―医師で社会運動家

   このシリーズの記述にあたりChristopher Pallis(以下、パリスさん)さんについて、インターネットで調べた。パリスさんは1923年12月、Bombay生まれ。2005年の3月10日に81歳で逝去された。The Guardian(英国の新聞)が詳細な追悼記事を載せている。パリスさんの肩書は、神経学者(neurologist)のみならず、libertarian socialist(完全自由社会主義者とでも訳すか)とある。Radclife 病院で医学を学び、1947~1950年までMalayaの病院に勤務した。その後、South WalesからHammersmith 病院に転じた。同時にRoyal Postgraduate Medical School講師を、1982年に引退するまで勤めた。1960~1970年代は医師としてより作家・翻訳家・社会思想家としての活躍が大きいようだ。Martin Grainger名で執筆していたパリスさんは、1961年に新聞社に実名を晒され、Hammersmith 病院の神経内科医の職を追われそうになった。そのため彼は政治的な執筆の際には、匿名かMorice Brintonという筆名で執筆した。かいつまんで紹介したが、実に興味深い多彩な才能の人物だ。
(2019.2.17)

(私の「医人」たちの肖像―〔41〕Christopher Pallisさんと座談会「脳死の科学と倫理」~1985年6月6日)