TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像― (43 ) 井川洋二さんと座談会「日本の科学・日本の医学」 ~1985年10月15日(火)

(43)井川洋二さんと座談会「日本の科学・日本の医学」 ~1985年10月15日

1985年10月15日(火)。夕刻の18時から、座談会「日本の科学・日本の医学」の収録を、勤務先の医学書院会議室で行った。座談会は、日本の科学・医学の近未来を展望する、1986年の新年1号企画だった。高松宮妃癌研究基金シンポジウム等でお世話になっていた理研の井川洋二先生に相談して、このテーマを選んだ。折しも、筑波科学万博が終了したばかりだったので、「日本の科学・日本の医学」を振り返り展望する機運があった。
■座談会:「日本の科学・日本の医学」■
●1985年10月15日(火):
 
座談会「日本の科学・日本の医学」の出席者は以下の四人だ。伊藤正男先生(東大医学部教授・生理学)、井川洋二先生(理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター所長代理・分子腫瘍学、後に東京医科歯科大学教授・生化学)のお二人に加えて、Alun Anderson (Nature誌東京支局長、David Swinbanks (東京大学海洋研究所・地質学)に参加していただいた。
 座談会出席者の人選について井川さんと相談して、神経科学の伊藤正男先生を推薦して意見を伺った。伊藤先生に打診すると、幸いにも快諾が得られた。Swinbanksさんについては、Natureの初代東京支局長Anderson氏から推薦してもらった。Swinbanks氏は、英国から東京大学理学部にリサーチ・フェローできており、潜水艦「しんかい日本」で海洋研究をしていた。確か日本人の奥さんがいた。この座談会を実施した翌年(1986年)に、Swinbanks氏が第二代Nature東京支局長となり、AndersonさんはNature米国(ワシントン)支局に異動した。
■カラーグラフ:「生命の言語―DNAを見る」■
 
座談会に加え、「カラ―グラフ」として「生命の言語―DNAを見る」を巻頭に掲載した。これは理化学研究所で進めているDNA実験研究の成果を、カラ―グラフ形式で紹介したものだ。急速に進歩してきたDNA操作技術(切る・繋ぐ・複製する)、遺伝子導入マウス(transgenic mouse)の作成についても紹介した。その頃はPCR(polymerase chain reaction)という画期的な遺伝子複製技術は、まだ日本に導入されていなかった。グラフの作成では井川先生に実によく面倒をみていただいた。
 当時の日録から紹介する。
(1)1985年10月28日(月):「日本の科学・日本の医学」の原稿整理を行った。この頃まだワープロ利用をしていなかったので原稿整理にずいぶん苦労をした。速記録をコピーして削ったりした。速記録をお届けしたところ井川先生から「もとカットすべきところは切るように」と注意された。今思えば編集者失格だ。編集職が34歳という遅いスタートであったのでかなりのプレッシャーがあったのも事実であった。
(2)1985年11月12日(火):高松宮妃癌研究基金のシンポジウムを取材。そこで井川洋二先生にあった。巻頭グラフ「生命の言語―DNA」というテーマの相談をした。
(3)1985年11月15日(金):午後15時頃。理研に電話して取材のアポイントをとった。
(4)1985年11月20日(水):午後13時30分頃に御茶ノ水の医科歯科大学研究室で井川先生に会う。「日本の科学・日本の医学」の校正を頂いた。井川先生は(母校)東京医科歯科大学(生化学)教授には未だ就任していなかったが東京医科歯科大学にも小さい研究室を持っていた。
(5)1985年11月25日(月):和光市理研の研究室を9時~18時まで取材した。翌26日(火)も理研の微生物・柴田先生を取材した。11月27日(水)もカメラマンのTYさんと一緒に、午後12時30分~17時頃まで理研和光市)を取材した。
(6)1985年11月28日(木):午前11時50分~18時頃まで理研(つくば研究センター)をカメラマンのTYさんと取材。つくば研究センターの「DNA実験施設」を撮影した。
(7)1985年12月2日(月):午後16時30分頃から分子生物学会を取材。井川先生と面談した。一日おいて12月4日(水)も18時頃に分子生物学会を取材した。
(8)1985年12月6日(金):理研和光市)を取材で訪れた。
(9)1985年12月9日(月):市ヶ谷のホテルグランドパレスで、井川先生に面会し1号の「カラ―グラフ」の校閲をしていただいた。
(10)1985年12月11日(水):理研(つくば研究センター)に午後15時から行った。「カラ―グラフ」の校閲のために理研の若手研究者に会うためだ。この折には理研でトランスジェニック・マウスの実験を行っていた相沢慎一先生にお世話になった。相沢さんは、その頃は30歳代の若手研究者という感じであった。2014年にSTAP細胞をめぐる「小保方事件」が起こった。60歳台と思しき相沢慎一先生が理研の研究顧問のような立場で在籍されていた。
(11)1985年12月14日(土):午前11時に癌研で井川先生に会った。その後で15時30分から法令印刷へ行って原稿を入稿した。メモには「12月14日~21日まで井川先生はアメリカへ」とある。それにしても井川先生もよく付き合ってくれたものだと思う。
(12)1985年12月17日(火)~18日(水):出張校正(第1681号)で法令印刷へ行った。医学界新聞・第1681号(1986年第1号)は、こうして完成した。私にとっても記念すべき特集号となった。
■ロマンチックな科学者の井川洋二さん■
 
井川さんとの最初の出会いは、高松宮妃癌研究基金記念シンポや日本癌学会等における、記者会見の折であった。井川さんは、学会トッピクスを素人の記者にわかり易く解説してくださった。口髭と偉丈夫の体躯で大人の風貌であった。今回のブログ執筆の折に経歴を見た。1934(昭和9)年11月21日東京で生まれ、2012(平成24)年4月12日に逝去された。癌研究会癌研究所ウイルス腫瘍部長、理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター所長代理を経て、平成2年東京医科歯科大学教授(生化学)を歴任された。がん抑制遺伝子の分離など遺伝子レベルから発癌機構の解明の研究に尽力された。井川さんとは、これ以降の接触はなかった。井川さんは基礎医学者であるが、医学ジャーナリストの素養もお持ちだった。羊土社の『ロマチックな科学者』『続・ロマンチックな科学者』、共立出版の『生物学の奔流―創造的研究への提言』、等の一般書の編集もされている。ご自身もロマンチックな科学者だった。
 ここで時代背景として、1985年の記憶に残る2つのことに触れたい。筑波科学万博と日航機墜落事故である。
■筑波科学万博へ■
 
1985年3月17日~9月16日まで(184日間)国際科学技術博覧会(The International Exposition Tsukuba Japan,1985)がつくば市で開かれた。筑波科学万博である。
●1985年8月2日:
 会社の夏季休暇を利用して長女のNを連れて筑波科学万博へ行った。長女は9歳で小学5年生であった。麦茶を入れた水筒とお握り弁当を持参した。どこのパビリオンも2~3時間待ちだった。記憶に残るのは未来(20年後)の薄型テレビであった。当時はテレビといえば大きなブラウン管テレビであったのに、このテレビは壁掛けの液晶画面であった。「本当にこんなに薄くなるの?」と半信半疑だったが、予定よりも早く現実となった。同じ日に妻Y子は下二人の娘をつれて池袋サンシャイン水族館に行っていた。
日航123便御巣鷹山に墜落■
●1985年8月12日(月):

 日本航空123便ボーイング747 SR-46、東京(羽田空港)発―大阪(伊丹空港)行が、群馬県多野郡上野村御巣鷹山に墜落した。この日は定時17時に退社して18時過ぎには川崎市多摩区の自宅に帰った。妻と子供たちは狭山市の旧宅に泊りに行って不在だった。私は一人で庭のトマトを採り、それを肴にビールを飲み気軽な夕食をとっていた。18時30分過ぎに消えた日航機の緊急ニュースが飛び込んできた。当時の手帳に「日航機墜落事故」と記されている。御巣鷹山へのジャンボ機墜落事故だ。御巣鷹山は私の故郷入野村から山一つ隔てた群馬県多野郡上野村に位置する。藤岡市から神流川上流へ十数キロだ。犠牲者の亡骸は藤岡市の病院そして藤岡中学校の体育館などに運ばれた。事故現場の御巣鷹山に慰霊碑が建立され、毎年、8月12日には遺族による慰霊登山が行われている。科学万博と科学技術の粋を尽くしたジャンボ機墜落事故は忘れることはない8月の記憶だ。
(2019.3.1)
(私の「医人」たちの肖像―〔43〕井川洋二さんと座談会「日本の科学・日本の医学」~1985年10月15日)