TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像— (47) 向井紀二さんと「Harvey Cushing 最後の日」~1986年2月20日(木)

(47)向井紀二さんと「Harvey Cushing 最後の日」~1986年2月20日(木)

 1986年2月20日(木)。医学界新聞(第1689号)の出張校正で港区・新橋の大日本法令印刷へ行った。「Cushing最後の日(Zimmerman著・向井紀二訳)を、医学界新聞・第1689号に掲載した。
■Cushing 最後の日■
●1986年2月20日(木):

 「Cushing最後の日」という論文は、米国の著名な神経病理医Zimmermanがインドの医学雑誌(Neurology India)に英文で寄稿したものである。その日本語訳をなぜ向井さんが翻訳して医学界新聞に掲載することになったかには説明がいる。向井さんは、その頃、中曽根内閣が主導していた対癌10ヶ年総合戦略の在外研究者の一人として、国立がんセンターに滞在していた。
 米国に居られた向井さんから「ボストンだより」というタイトルで、米国の医学事情紹介文を、1975~1977年まで随時連載で医学界新聞に寄稿してもらっていた。今回もその伝での企画であった。掲載時に次のようなイントロを付けた。
 「臨床医の鏡として名声の高い医聖Sir William Osler は基礎医学の重要性を認識し、McGill 大の教授(生理、病理)として出発した若き日、1000を越える解剖を自ら行ったことはよく知られている。その弟子、Harvey Williams CushingはOslerの影響下で育ち、近代の外科学の始祖となった。Cushingがその死に臨んで自らの解剖を遺言として残したのも、あくなき医学への探求心を持ち続け、基礎としての解剖学を重視したOslerとの縁と無関係ではあるまい。Cushingの解剖は神経病理学の泰斗Harry M. Zimmermanによってなされた。」
 こうして行われた剖検の記録が、「Harvey Cushing 最後の日(The Last Days of Harvey Cushing)である。
痩身で芸術家肌の向井さん■
 
向井さんは、大正15(1926)年5月1日の和歌山生まれ。昭和63(1988)年12月12日に逝去された。まだ62歳という若さであった。前段で、1986年に在外研究員の一人として国立がんセンターに居られたことを紹介した。その内実は、米国ハーバード大学教授のまま日本に一時帰国して、胃がんの治療を受けていた(らしい)。何回か国立がんセンター病理部におられた向井さんの研究室を訪れたが、ご自身のことについては一言も語らなかった。治療のことは後で知った。ダンディーで「ノブレス・オブリージュ」を体現そのままに見受けられた。
 向井さんは、友人でもあった外科医の西 満正さん(当時、癌研究会附属病院長)に、胃がんの手術を委ねた。向井さんの没3年後の1991年、当時は癌センター病理部から群馬大学病理(教授)に移られていた中島 孝さんが、向井さんを偲んで、『ボストンだより―向井紀二先生追悼集』をまとめられた。
  「手術せし 友の病の 重ければ わが脳 手足 重き日々かな」という、執刀医であった西さんの歌が、巻頭に掲載されている。
(2019.3.11)


(私の「医人」たちの肖像―〔47〕向井紀二さんと「Harvey Cushing 最後の日」~1986年2月20日