TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(50)山本保博さん②と「国際緊急援助隊専門家チーム派遣」 ~1986年3月11日(火)

(50)山本保博さん②と「国際緊急援助隊専門家チーム派遣」~1986年3月11日(火)

 

   1986年3月11日(火)。午後18時に文京区・千駄木の日本医大救急救命センターに山本保博先生を訪問した。「国際緊急援助隊専門家チーム派遣―山本保博氏に聞く」というインタビュー記事(医学界新聞・第1721号)がある。その折の取材活動であった。
■国際救急医療体制から国際緊急援助隊専門家チーム派遣へ■
●1986年3月11日(火):
 
世界各地で大規模な災害が発生した時に、医療あるいは災害復旧の専門家が諸外国から駆けつけて援助にあたることは今では当然のこととして紹介されている。しかし、1980年代では国際緊急援助隊専門家チームの海外派遣は、日本では緒についたばかりであった。
 
1983年3月、国際救急医療体制(JMTDR)が発足した。主として開発途上国に、大規模な自然災害などが発生した折に、人道的な立場から派遣の必要があると判断され、かつ被災国から要請があったときには、48時間以内に出発できる体制作りを目指すものであった。1984年夏頃から世界的にアフリカにおける飢餓問題がクローズアップされ始めた。これに対応するために、医療団のエチオピアへの派遣が決まり、1984年12月に第1次チームが出発した。以降、第4次まで総勢32人が現地で医療活動を行った。その後、1985年9月19日、メキシコに大地震が発生した折にも、救援医療チームが39時間後には現地に到着して救援活動を行った。さらに、そのあと勃発したコロンビアの火山爆発の折にも救援活動を行った。これら、JMTDRの活動の経験から、大規模災害においては医師や看護婦だけが災害現場に行っても、地震で倒壊したビル瓦礫の下から負傷者を救出できないと判明した。レスキュー隊のような瓦礫撤去技術を持った人たちも含めた総合チーム結成の必要が明らかになった。そこで、新たに発足したのが「国際緊急援助隊チーム」であった。
 
山本さんは、その後、米国サンフランシシスコ大地震(1989年10月17日)の折にも緊急援助隊チームの一人としていち早く現地に駆けつけている。倒壊した高速道路の写真付きで、その時にレポートをいただいた。その6年後、サンフランシスコ大地震と全く同じように高速道路が倒壊した典型的な都市災害である阪神淡路大震災に私たちは遭遇した。
■日本医大救命救急センターへ頻繁に取材に行く■
 
山本さんとの出会いは、1985年に山本さんが米国のMayo Clinicに留学した際に、その体験記を連載で寄稿いただいたのが契機となった。当時の山本さんは千駄木の日本医大救命救急センター助教授であった。そのあと、1991年に、山本さんが日本医大付属多摩永山病院救命救急センター長に就任した折には、東京から多摩川を渡って取材に訪れて、ルポ風の記事で紹介した(「日医大永山病院救命救急センター」、医学界新聞・第1941号)。
 当時から(今も)、日本医大救命救急センターは、都内屈指の第三次救命救急センターの拠点である。日本医大救命救急センターには、自殺未遂者も搬送されることも多い。そのため、救急医学とは畑違いにもみえる精神科医師も同センターに参加していた。そんな縁で、精神科医(当時は日本医大講師)の黒 沢尚先生の知遇も得た。「自殺予防研究ノート」のテーマで、黒沢さんからは連載を寄稿してもらった。黒沢さんも後に教授になられた。定年後に大学を辞した後は、民間病院に移籍し老年痴呆(認知症)の臨床医として活動されているようだ。
(2019.3.13)


(私の「医人」たちの肖像―〔50〕山本保博さん②と「国際緊急援助隊専門家チーム派遣」~1986年3月11日)