TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(55) 北村 敬さんと座談会『どうなる日本のAIDS』 ~1986年10月27日(月)

55)北村 敬さんと座談会『どうなる日本のAIDS』~1986年10月27日(月)

 

   1986年10月27日(月)、医学書院の会議室で、午後18~20時にかけて、座談会「AIDS」を収録した。初めに、当時の日本におけるエイズの状況がどのようなものであったか、過去のスクラップノートから振り返る。
■日本のエイズ15人―1986年5月23日■

 「一般献血者から抗体検出、東京・大阪13万人中3人」という見出しの記事が、1986年5月23日の朝日新聞夕刊にある。この記事は次のように続く。
 「厚生省は献血時の陽性率がアメリカの1万人中4人に比べ13万人中3人と極めて低いことから欧米のように一般市民が汚染される心配は少ないとしながらも検査体制の見直しを始めた。現在まで確認されているわが国のエイズ患者は15人でうち10人が死亡している。この段階では献血血液の診断は確立されていない。2か月後の7月には次のような記事もある。
 「エイズは発見から5年がたち世界各地でますます猛威を振るっている。患者発生の多いのは欧米など先進国だが、日本だけは認定患者16人と発生は横ばい状態。このほどパリで開かれた第2回国際エイズ会議でも、なぜ日本はすくないのか、と世界の医学者たちは首をひねった。」
 日本のエイズパニックはまだその前夜であった。厚生省が献血時にエイズ抗体検査を必須にしたのは、1986年10月からだ。
■座談会「どうなる日本のAIDS」を収録■
●1986年10月27日(月):
 
座談会「AIDS」の収録に先だって、10月8日(水)、東村山市にあった国立予防衛生研究所に、北村先生を訪問して企画相談をした。座談会の陣容が以下のように決まった。出席者は北村 敬(国立予研・ウイルス部長、司会)、山田兼雄(聖マリアンナ医大教授・小児科)、南谷幹夫(都立駒込病院感染症内科)であった。血液製剤によるエイズウイルス感染の面から山田兼雄先生に参加を依頼した。先天性疾患の血友病では血液製剤が治療に必須であるので輸入血液製剤からのエイズウイルス感染が問題となっていた。南谷幹夫先生にはエイズの臨床医としての立場から参加してもらった。そのころ都立駒込病院は東京都内で数少ないエイズ臨床拠点病院の一つであった。
 「どうなる日本のAIDS(北村 敬・南谷幹夫・山田兼雄)」のタイトルで、この座談会を医学界新聞・第1732号(1987年1月)に掲載した。タイトルページのレイアウトの工夫も行い、私にとって記憶に残る特集号の一つであった。
■実直なウイルス学者―北村さん■
 
北村 敬さんとの初めての出会いは、1984年9月に仙台で開催された第5回国際ウイルス会議に遡る。仙台におけるウイルス会議では、メインの五つのシンポジウムに追加して、「特別ワークショップAIDS」が行われた。これを取材して、「AIDSの原因ウイルス―HTLV-Ⅲ or LAVが有力に」という記事にまとめて紹介した。この折に、記者会見でエイズのワークショップ解説を担当されたのが北村さんだった。その年の年末に医学界新聞恒例の新春随想として、「エイズについて書いて欲しい」と北村さんに依頼した。北村さんから、「熱帯病となったエイズ」のタイトルで寄稿頂いた。
■熱帯病となったエイズ
 この随想の中で北村さんは次のように書かれていた。
 「筆者は学会本部の委託で記者団を集めて解説しなくてはならないので、最前列でスライドの一字も見落とすまいと身構えていた。シンポジウムの経過は各紙に紹介されたようにフランス・パスツール研究所のモンタニエがリンパ腺症患者より分離して確立したリンパ腺症関連ウイルスLAV(1983)と、米国NIHのギャロがAIDS患者の抹消血リンパ球より分離したHTLV-Ⅲ(1984)とが同じウイルスで、AIDSの原因であることが事実上証明された記念すべきものとなった。」
 今回このブログ書くのに北村さんのことをインターネットで調べた。神奈川県秦野市で、1933年8月11日生まれた。今年の誕生日で86歳だ。1958年東京大学卒。1959年から国立予防衛生研究所勤務。1992年にウイルス部長、のちに富山県衛生研究所長を務めた。著書の中に私も読んだことのある『天然痘が消えた』(中公新書、1982)、『エイズ今世紀最大の謎』(朝日ソノラマ、1986)、『AIDSの臨床―一般医のための診療指針』(南谷幹夫、共著、医学書院、1987)が載っていた。最後の本は、上記で紹介した座談会を元に対談形式で再構成した「エイズの臨床」の本であった。比較的早い段階で臨床家の指針及び一般の啓蒙書を目指したが、読者は十分には得られなかった。エイズウイルス研究と治療薬開発の研究進展の方が早かったからであろう。
(2019.3.17)


(私の「医人」たちの肖像―〔55〕北村 敬さんと座談会『どうなる日本のAIDS』~1986年10月27日)