TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(62)満屋裕明さんと対談「AIDS治療最前線」 ~1987年7月1日(水)

(62)満屋裕明さんと松本孝夫さん、対談「AIDS治療最前線」~1987年7月1日(水)

 

 日本臨床免疫学会が、1987年7月1日(水)~3日(金)の3日間、札幌市の厚生年金会館で開かれた。1987年6月30日(金)、東京・駒場駒場エミナースで開かれた「組織培養学会」を取材したあと夜の航空便で札幌に移動した。
■日本臨床免疫学会開催―札幌市■
●1987年7月1日(水)~3日(金):

 五ヶ月前の2月12~13日、東京で開かれた「国際エイズ治療カンファレンス」に来日したばかりの満屋裕明さん(米国NIH)が、再来日して札幌での臨床免疫学会に参加予定と知った。この機会を捉えて、私は7月2日(木)の昼に札幌市の京王プラザホテルの会議室で満屋裕明先生と松本孝夫先生(順天堂医院・内科医)の対談「エイズ治療最前線」を昼食を挟んで企画した。
■対談「エイズ治療最前線:満屋裕明vs.松本孝夫」■
 満屋さんはエイズの特効薬AZTの開発者であり、松本孝夫さんはエイズの拠点病院の一つである順天堂医院でエイズの臨床に携わっていた。二人とも三十歳代の若い医師であり、当時の焦眉の課題である「エイズ治療」を探る企画に登場していただくのは、最適な人材だった。
 札幌・京王プラザホテル会議室を、対談会場として予約した。今回は一人取材なので、録音・写真撮影も自前である。ホテルのフロントで尋ねたら、結婚式担当のカメラマンが所属しているというので、大事をとって撮影を予約した。昼の12時から食事を挟んでの手順なので、早めにホテルの会議室で待機した。しかし、ここで番狂わせが生じた。千歳空港についた満屋先生が、マスコミに掴まってしまったのだ。満屋さんは時の人になっていた。松本先生は待ち切れず、「もうやめようか」とイライラをつのらせた。依頼していたホテルのカメラマンにも迷惑をかけた。満屋さんが到着したのは午後14時にならんとしていた。大幅に遅れたが、とにもかくにもなんとか対談は実行できた。
 「エイズ治療最前線―満屋裕明・松本孝夫」のタイトルで、この折の記録を、医学界新聞第・1768号(1987年)に掲載した。
青函トンネル1987年開通と寝台特急北斗星」■
 
青函トンネルが1987年3月に完成した。この折の札幌出張では、7月3日(金)22時羽田着のANA便で帰京計画を申請していた。実際は週末の休日を利用して宿泊を1日延し帰路を陸路にして、夜行列車の中で学生時代のノスタルジアに耽りながら帰京した。ちなみに、抗HIV薬AZTがエイズ治療薬として誕生したのが、青函トンネルの完成と同じ1987年3月だった。
 特急北斗16号で札幌を立ち、翌7月5日(日)盛岡で、朝7時29分発の特急「やまびこ」に乗り継いで上野駅へ戻ってきた。「嗚呼、上野駅」という歌の雰囲気がまだ残っていた頃だ。
 翌年1988年3月。寝台特急列車「北斗星」が上野と札幌間を直接に繋いだ。それから27年が経過し、2015年8月、「北海道新幹線の開業と格安航空便に押されて「北斗星」もその幕を閉じた。時代は刻々と流れているのである。
(2019.3.24)
(私の「医人」たちの肖像―〔62〕満屋裕明さんと対談「AIDS治療最前線」~1987年7月1日)