TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(63)林 峻一郎さんとエッセイ「ペルーで考えたこと」 ~1987年8月10日(月)

(63)林 峻一郎さんとエッセイ「ペルーで考えたこと」~1987年8月10日(月)

 

   医学界新聞・第1761号(1987年8月17日付)の「出張校正」のため、東京・新橋の大日本法令印刷へ、上司のMMさんと一緒に行った。この日に「下版」した号には、「第30回日本消化器外科学会総会開催」、「在宅医療環境整備に関する検討会設置」等の記事に加えて、「ペルーで考えたこと」というエッセイ(林峻一郎著)を掲載した。このエッセイは私が提案して創設した「Holo-Scope」というコラムの一つであった。
■「下版」って何?■
●1987年8月10日(月):

 最初に出版に関する用語解説をしたい。当時の印刷方式は、現在のようにコンピュータではなくて活版印刷であった。植字工が一つ一つ活字を版下(文章印刷用の版型)に組み込む。鉛製の活字は重いので、版型の作成は作業台の上で職人が行う。版が完成すると作業台から降ろして印刷に回す作業を「下版」と称した。その作業が終盤の佳境に入ると、編集に携わった担当者が、印刷所に直接出向いて詰めの校正業務を行うことになる。これを「出張校正」と称した。
林峻一郎「ペルーで考えたこと」■
 
林峻一郎さんは、精神科医である。当時は北里大学教授であった。その頃、林さんは南米ペルーから帰国して数年経ったばかりであった。そのことを知った私が、「ペルー滞在記を書いて欲しい」と、原稿執筆を依頼した。タイトル「ペルーで考えたこと」は、堀田善衛さんの本のタイトル「インドで考えたこと」のアナロジーで、私が付けた。
 林さんの履歴を調べてみた。1930(昭和5)年東京に生まれ。2008(平成20)年に逝去された。1954(昭和29)年に慶應義塾大学医学部卒。精神科医となり、1974年に、神戸大学の医学博士号を、1974年に取得した。その後、『三田文学』編集主任となる。創作活動の後に慶応大学医学部精神科助手、パリ大学精神神経科助手を経て、北里大学教授に就任した。
 ペルーのリマに、国際協力のため1980~1982まで滞在した。『リマの精神衛生研究所―ある国際技術協力の軌跡』(中公新書、1986)、『「ストレス」の肖像―環境と生命の対話』(同、1993)等々が、著書にある。この折のエッセイでは、ペルーの社会状況や米国の心理学者 Richard S.ラザルスの「ストレス学説」ついても触れていただいた。
■作家・木々高太郎の長男■
 
医師で作家という人は多い。詩人・劇作家・翻訳家・美術史研究科として一家をなした木下杢太郎は、太田母斑で著名な皮膚科医・太田正雄である。ロシアの作家チェーホフも医師であり、小説『六号室』では閉ざされた精神病棟を描いている。
 第4回直木賞を受賞した木々高太郎は、大脳生理学者林髞(はやしたかし)である。大脳生理学者の林は、1932(昭和5)~1933(昭和6)年、ソ連レニングラード(ペテルブルグ)の著名なパブロフの元に留学して、条件反射の研究をしている。帰国後は研究・教育活動の傍ら新聞へ医学随筆の寄稿等も行い、1934には科学知識普及会評議委員となる。戦後1945(昭和20)年に、林研究所を創設して所長となり、翌年には慶應義塾大学医学部教授となる。1951(昭和26)年には復刊された「三田文学」の編集委員となり、木々は同誌の表紙・裏表紙のデザインも手がけた。
 講談社現代新書として、昭和40年頃、『からだの法則を探る』および『性=この不思議な原理』という一般啓蒙書を出版しており、高校生の私も読んだことがある。医学と文学の両面にわたる多彩(才)な活動に目を瞠る。1969(昭和44)年6月に入院し、同年10月31日に心筋梗塞のため聖路加国際病院にて逝去(72歳)された。
 「幻想に生きた父・林髞」という一文を、雑誌「文藝春秋(1970年5月号)」に林峻一郎さんが寄稿している。この父はさぞかし重い存在であったろう。私のお会いした林峻一郎さんは、精神科医独特の「陰」を感じさせない爽やかな方に思えた。
(2019.3.26)


(私の「医人」たちの肖像―〔63〕林峻一郎さんとエッセイ「ペルーで考えたこと」~1987年8月10日)