TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(74)中嶋 宏さんとインタビュー「WHOの今後と日本の役割」〜1988年6月22日(水)

(74)中嶋 宏さんとインタビュー「WHOの今後と日本の役割」〜1988年6月22日(水)

 

 1988年6月22日(水)、朝から医学界新聞の出張校正(第1804号)のために法令印刷へ行った。その日に下版した医学界新聞・第1804号に「中嶋宏WHO本部次期事務局長に聞く―WHOの今後と日本の役割」というインタビュー記事を掲載した。
■第4代WHO事務局長■
●1988年6月22日(水):

 世界保健機構(WHO)が創立から40周年を迎える年であった。1988年1月14日に開かれたWHOの執行理事会で、中嶋さんは第4代事務局長に選任されていた。中嶋さん来日の機会を捉えてのインタビュー企画であった。紀伊國献三さん(当時、筑波大学教授・医学社会学)にインタビュアをお願いした。
■インタビュー「WHOの今後と日本の役割」■
 (1)WHO創設40周年と今後の施策―南北・東西の接近とテクノロジー統御の課題、(2)世界各国からの日本への期待、という二本の大見出しをつけてインタビュー記事をまとめた。「アフリカのエイズ禍とWHOの財政改革」を当面の課題として中嶋さんがあげていたのが、特筆される。時代の趨勢を色濃く反映していた。
■アルマ・アタ宣言―西暦2000年までに世界中の全ての人々に健康を■
 遡ること10年前の1978年9月12日に開催された「プライマリ・ヘルス・ケア国際会議」において「アルマ・アタ宣言(Declaration of Alma-Ata)」が出されていた。アルマ・アタ宣言は、カザフスタン共和国アルマティ(当時はソビエト連邦アルマ・アタ)で、1978年9月6日~12日にかけて開催された「第1回プライマリ・ヘルス・ケアに関する国際会議」で採択された宣言文である。この宣言では西暦2000年までに世界中のすべての人々の健康を保護し増進するために、政府、保健従事者および地域住民による迅速な行動が必要である、と指摘していた。
 アルマ・アタ宣言を承けて中嶋さんの前任のマーラー事務局長の主導で、“Health for all by the Year 2000” が推進されていた。この指標を、中嶋さんは継承した。爾来、31年余が経過した現在、「アルマ・アタ宣言」の指標はどこまで達成されたのだろうか。
■日本人初のWHO事務局長・中嶋 宏さん―その後■
 中嶋宏さんは、1928年5月16日に千葉市で生まれ、1955(昭和30)年に東京医科大学を卒業した。その後、フランス・パリ大学で神経精神薬理学を専攻した。1958(昭和33)年~1967(昭和47)年までフランス・保健医療研究局に科学者として勤務した。1974(昭和49)年に世界保健機構(WHO)に入職し、薬剤評価などに従事した。1976(昭和51)年には薬剤政策管理部門のチーフに昇進。1978(昭和53)年からWHO西部太平洋地域ディレクター(Regional Director)を2期10年に渡って務めた。
 日本人初の第4代WHO事務局長(Director General)に1988(昭和63)年に選出された。1993(平成5)年の再選を経て二期10年(1998年まで)同職を務めた。在任中は特にAIDS対策に対する活動が評価された。2013(平成25)年1月26日。フランスのポワチエの病院で逝去された。84歳であった。
(2019.4.13)


(私の「医人」たちの肖像―〔74〕中島 宏さんとインタビュー「WHOの今後と日本の役割」~1988年6月22日)