TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「私のC型肝炎物語」第3章:晴天の霹靂: あなたはC型肝炎ウイルス(HCV)のキャリアです!(3)― 勤務の合間に2週に一度の受診

(3) 勤務の合間で2週に一度の通院:1998~2000年

勤務の合間で2週に一度の通院■

  • 1998年12月22日:

   1998年12月22日(火曜日)に、午後12時30分から、第2回目の東大病院小俣内科を受診した。以降、2週間に一度の東大病院通いが私の日課の一つに加わった。
 東大病院への受診日は、昼休みになると本郷3丁目界隈で昼食を済ませてから東大病院に行った。勤務先のI書院が東大の赤門の並びにあるという地の利を生かしての離れ技であった。昼休み時間を利用して受診して、上手くいけば13時過ぎに勤務に戻れる。この日は診察が混んでいたので終了したのは15時を過ぎていた。薬(ウルソ)を2週間分しか処方しえもらえなかったので、2週間に1回の頻度で東大病院受診が必要だった。途中から診察が4週間に一度でよくなった。中間の2週間目に、看護師さんから処方箋を貰って院外薬局で薬を入手した。このパターンが3年間くらい続いた。その後、さらに慢性疾患については、医療法改定により2か月分の処方が可能になった。これで、受診が2カ月に1度で済むようになった。受診の際は順番を待つ間も、医学雑誌の掲載原稿ゲラ刷りの素読み(スヨミ)を行っていた。

■1999年1~6月の受診予約■

   この日に1999年1~6月まで半年分の受診予約を入れて貰った。1月12日、2月16日、3月23日、4月20日の4カ月は何れも火曜日の午前11時だった。さらに、5月21日(金)午前11時に、超音波検査を予約した。その結果を踏まえて6月8日(火曜日)午前9時に診察予約を入れた。つまり、毎月の受診に加えて、半年に1度の肝臓の超音波検査が義務付けられた。しかし、仕事の都合で屡々変更を余儀なくされた。4月20日(火)の受診の折に、5月21日(金)の超音波検査を5月28日(金)の午前11時に変更してもらい、これに伴い6月8日(火)の内科受診を、6月15日(火)午前11時に変更した。 
           (右上写真は、診療予約票)▲

   以下、手帳のメモと処方記録から初期の日々を振りかえってみたい。

■満52歳の1年■

  • 1999(平成11)年の日録より:

   1999(平成11)年は、私にとって転換期であった。1989(平成元)年から10年が経過した。

1月7日(水曜日): 誕生日で私は満52歳になった。

1月12日(火曜日): 午後12時30分が東大病院小俣内科の受診予約時間であった。当時は、昼休み時間に受診して午後13時には会社に戻って、午後1時からの会議に出席できるように調整していた。

 

3月23日(火曜日): 午後12時30分に東大病院小俣内科を受診した。

4月20日(火曜日): 昼休みの12時30分に東大病院小俣内科を受診した。

5月28日(金曜日): 午前11時に東大病院小俣内科でウルソの処方箋を取得した。

6月15日(月曜日): 午前9時~11時に東大病院小俣内科を受診した。

7月12日(月曜日): 午後14時から東大病院小俣内科の超音波検査日だった。昼休みに外出して雑誌掲載論文の素読みをしながら受診をした。

7月27日(火曜日): 午前10~12時の間に東大病院小俣内科を受診した。

8月10日(火曜日): 午前10時に東大病院小俣内科を受診した。この頃は2週間に一度の頻度で処方箋を取得して薬(ウルソ)を院外薬局で入手していた。

9月14日(火曜日): 午前10時に東大病院小俣内科を受診した。四週間に一度の診察日は火曜日の10時頃に受診予約をしていた。ところで、この頃は血液検査を行っていなかったのだろうか?記録用紙が保存してない。小俣教授は、検査結果をプリントして渡してくれなかったのであろう。この日は会社で午後13~14時まで、「医学雑誌オンライン会議」があった。医学雑誌が電子化される過渡期であった。

10月19日(火曜日): 午前10時30分に東大病院の小俣内科を受診した。

11月9日(火曜日): 午前10時30分に東大病院小俣内科を受診した。この日は7時20分に家を出て9時10分に会社に着いた。7時35分頃に、「発作あり」の記述が手帳にある。この頃、小田急線の通勤電車の中でときどき胸痛があったのを覚えている。今から考えると「微小血管狭心症」であったのかもしれない。一過性なので放っておいた。

12月14日(火曜日): 午前11時に東大病院小俣内科を受診した。

■満53歳の1年■

  • 2000(平成12)年の日録より:

1月7日(金曜日): この日の誕生日で私は満53歳になった。

1月21日(金曜日):午前8時から東大病院へ行く。超音波検査のあと小俣内科を受診した。その後、午後の12時56分発の新幹線のぞみ号で名古屋へ出張した。

2月1日(火曜日):午前9時から東大病院小俣内科を受診した。

3月7日(火曜日):午前11~12時に東大病院小俣内科を受診した。この日は、朝9時30分から企画会議、午後13~15時に部長会議。夜18時から雑誌「臨床検査」の編集会議に出席した。文字通り寸暇を縫っての通院であった。

■多忙な中で乱れた食生活

   往時の生活を振りかえってみると、週4~5回は編集会議に出席した。毎夕食は会議前に高カロリーの夕食を出席者全員で食べた。さらに夜の9時過ぎに業務が終了すると、お腹がすいて夜10時頃に4回目の食事をしていた。この結果、当時は自己最高体重66キロ前後になっていた。C型肝炎に加え数年後に顕現した糖尿病の原因は、多忙な毎日と食生活の乱れに原因しているのであろう。

4月4日(火曜日): 午前9時30分~10時30分まで企画会議に出席した。10時45分から東大病院小俣内科を受診した。

4月30日(日)~5月1日(月): 連休を利用して箱根の山に妻のY子と二人で行った。小田原から大雄山線で箱根方向への登山口へ行った。明神が岳から明星が岳と縦走して宮城野に下山して、出版健保の「おおたいら」に宿泊した。天気がよくて暑い中をよく歩いた。病を抱えていても元気でいられた。それが若さだったのだろう。大変な毎日の勤務状況を耐え忍んだ。

5月2日(火曜日): 東大病院小俣内科を受診した。連休の中日なので企画会議、部長会議も休会であった。夜から長野県の佐久平にあるSE師範の「佐久道場」に行った。一泊して翌5月3日(水)は午前10~12時まで合気道の稽古に参加した。

6月6日(火曜日): 企画会議の後で、東大の小俣内科を受診した。

6月23日(金曜日): 出版健康保険組合の健康診断を受けた。血液検査結果は以下のようだ。AST、ALT、γ-GTPは、46、49、113だった。肝臓関連のすべての数値が正常値を越えている。血糖値は118、HbA1cは5.3である。この時には糖尿病はまだ指摘されていなかった。

7月4日(火曜日): 企画会議の後、午前11時から東大病院小俣内科を受診した。帰って14時から雑誌「消化器画像」の打ち合わせがあり、その後15時から部長会議に出席した。

7月28日(金曜日): 午前9~10時30分に東大病院小俣内科を受診した。肝臓超音波検査を行った。

8月8日(火曜日): 午前10~11時に東大病院小俣内科を受診した。

9月9日(火曜日): 午前11時30分~12時に東大病院小俣内科を受診した。

10月10日(火曜日): 午前11~12時に東大病院小俣内科を受診した。

11月14日(火曜日: 午前11時~12時に東大病院小俣内科を受診した。

12月12日(火曜日): 午前10時30分~11時30分に東大病院小俣内科を受診した。

■地下鉄大江戸線開通■

   2000(平成12)年12月12日(火曜日)に、都営大江戸線が開通した。新宿から丸の内線を使用しなくても、新宿西口駅から大江戸線利用で本郷3丁目に行けるようになった。従来よりも10分位の短縮となった。

1998年から始まった私のC型肝炎の経過観察の日々を2000年まで振り返ってみた。これ以降2006年8月に、当時のC型肝炎の最新治療「PEGインターフェロン」に挑戦するまで、週2回、途中から処方箋発行が4週間分可能になってからは月に1回の東大病院通いが続いた。

(2019.4.16)

(「私のC型肝炎物語」第2章:晴天の霹靂:あなたはC型肝炎ウイルスHCVキャリア)です!―〔3〕勤務の間に2週間に一度の受診)