TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(21) 小酒井望さんと第12回世界臨床病理学会~1983年10月10日(月)

(21)小酒井望さんと第12回世界臨床病理学会~1983年10月10日(月)

 

1983年10月10日(月)。第12回世界臨床病理学会を、朝から取材した。
 第12回世界臨床病理学会は、会長が小酒井望先生(当時、順天堂大学教授・臨床病理学)、事務局長が河合忠先生(当時、自治医大教授・臨床病理学)。東京・西新宿の京王プラザホテルが、学会場であった。同僚の行かないあらゆる分野の学会へ、落穂ひろい的に新人記者の私は取材に出かけた。「盲蛇に怖じず!」。国際会議にも臆せず取材に行った。「第12回世界臨床病理学会開催」のタイトルで、この折の取材結果を、医学界新聞・第1576号(1983)で紹介した。
 この会議に参加のため来日した米国のClinical Cytologyの泰斗Leopold George Kossと臨床細胞学の高橋正宜さんとの対談については、別途紹介する。
■12回世界臨床病理学会■
1983年10月10日(月):
 第12回世界臨床病理学会議の取材記事を掲載した医学界新聞・第1576号を、会長の小酒井望先生にお送りした。直ぐにお礼のハガキが届いた。望外のことであり新人記者の私は嬉しかった。臨床病理学の分野で小酒井先生は、その頃、文字通りトップであり、「小酒井天皇」と称されていた。その天皇からお礼のハガキが直ぐに届いた。新人記者の面目躍如であった。この機会に小酒井望さんのことをネット検索してみた。
順天堂大学臨床病理学・初代教授■
 
小酒井さんは、1918(大正7)年3月31日に名古屋で生まれ、1989(平成元)年1月15日に逝去された。1941年東京帝国大学医学部卒、国立東京第一病院を経て、1961(昭和36)年に開設された順天堂大学の臨床病理学講座の初代教授に就任した。1983(昭和58)年に定年退官。翌、1984(昭和59)年に順天堂浦安病院長(初代)に就任にした。細菌学、臨床検査学が専門。上記で触れた世界臨床病理学会開催の年に定年を迎えられた。小酒井望さんは日本の探偵小説黎明期に活躍した小酒井不木(本名光次)の長男と知った。
 小酒井不木(ふぼく)は、明治23(1890)年に愛知で生まれ、東京帝国大学卒(大正3年)の医師(生理学、血清学)で、大正6年12月に東北帝大助教授、大正6年12月~9年11月まで、米・英・仏・瑞留学をへて、大正9年12月に東北帝国大学教授になるが、病気悪化のため赴任できず退官した。38歳という若さで昭和4(1929)年に逝去された。以上の履歴は、「医学人名辞典、医学書院刊」より。多才であるが不幸にも早世した。
■臨床病理学から臨床検査医学へ■

臨床病理学は、臨床検査医学と現在では呼称されている。何時どのような経緯で名称変更されたのだろうか。ここでは、順天堂大学大学院のホームページから引用して紹介する。
 「臨床病理学」の内容は、現在「臨床検査医学」として認知されているものと同一である。米国ではこの分野がClinical Pathologyとして発達し、本邦ではその訳語として臨床病理学という名称が用いられたことに由来している。国立大学の同種の講座で臨床検査医学の名称が広く用いられている。最近では、「臨床検査医学」や「病態解析診断学」などと呼ばれることが多くなっており、業務の内容をわかりやすく表示するため、平成18年11月1日より「病態解析診断学(臨床検査医学講座)」に、平成25年6月1日より、現在の「臨床病態検査医学」に改称した。
(2019.4.20)
(私の「医人」たちの肖像―〔21〕小酒井望さんと第12回世界臨床病理学会~1983年10月10日)