TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人たち」の肖像―(17) 川崎富作さん①と座談会「川崎病の本態解明をめざして~診断・治療・疫学」~1982年10月4日(月)

(17)川崎富作さん①と座談会「川崎病の本態解明をめざして~診断・治療・疫学」~1982年10月4日(月)

 

   1981年5月16日(日)。日本小児科学会において、「川崎病の本態と治療」というシンポジウムが開かれた。三人の幼い子どもを持つ親としてこのテーマに興味を持って取材した。「川崎病とは、公害都市川崎の病ではなく、川崎富作先生が発見したことから、この名称になった子どもの病気である」という程度の知識しか、当時の私はもっていなかった。「川崎病の本態と治療」のタイトルのもと、この取材結果を医学界新聞・第1502号で紹介した。この記事が呼び水となって、以下の座談会に結びついたのかもしれない。
■座談会「川崎病の本態解明をめざして」■
1982104日(月):
 1982年10月4日(月曜日)。座談会「川崎病」を、医学書院会議室で収録した。出席者は小林 登(当時、東大教授・小児科)、川崎富作(当時、日赤医療センター・小児科)、草川三治(当時、東京女子医科大学第2病院・小児科)、重松逸造(放射線影響研究所理事長・疫学)の四名であった。
 川崎病は、原因不明の「小児の急性熱性皮膚粘膜琳巴腺症候群」として、1962年に川崎富作氏により初めて記載された。原因不明の小児、幼児の疾患であり、治癒しても心臓に後遺症を残すことから恐れられていた。座談会収録時の1982年までに、既に20年を経過していたが、原因も明らかでなく的確な治療も確立されていなかった。日本心臓財団に、「川崎病原因究明委員会(重松逸造委員長)が、1982年7月に漸く発足した。
 座談会は、司会をされた東大教授(小児科)の小林 登さん(文部省川崎病研究班長)からの持ち込み企画だった。川崎病の発見者の川崎富作さんに加えて、重松逸造さんと草川三治さん(厚生省川崎病研究班・斑長)に参加いただいた。
 座談会の事前の準備を同僚のKI君が行い、原稿の整理は私が行った。座談会は、翌年の医学界新聞・第1536号(1983年2月14日付)に掲載した。座談会の内容は、(1)New entityとしての川崎病、(2)川崎病の治療、(3)川崎病の原因は何か、(4)研究体制の一層の強化を、の四項目であった。
■川崎さんと川崎病のその後
 川崎さんには、七年後の1989(昭和64)年に、川崎さんが「朝日賞」を受賞された折に取材でお目にかかった。さらに11年後、2000年代に私が『呼吸と循環』という心臓関係の雑誌に携わったおりに、「温故知新」というインタビュー企画でお話を聞く機会を持った。この機会にインターネットで検索すると、お元気でご活躍だ。川崎さんは1925(大正14)年の東京・浅草生まれと知った。
 往時の座談会掲載から36年が経過した現在(2019年)、川崎病は今でも新聞紙上を賑わす流行を報じられることがある。2018年6月12日、横浜のパシフィコ横浜で第12回国際川崎病シンポジウム(The 12th International Kawasaki Disease Symposium)が開かれた。神奈川県・座間市「おぎはらこどもクリニック」のホームページに、次のように記されていた。
 「日本川崎病学会は毎年開催されますが、世界中から数百人ものひとが集まり「川崎病」という一つの病気について原因や治療、合併症など様々なことについて発表し話し合う国際シンポジウムは3~4年に一度開催され、今回が12回です」。
 川崎病は、現在でも原因が不明の病気のままだ。
(2019.5.11)
 追記: 川崎富作さんは、令和二(2020)年、東京都内の病院で老衰にて逝去された。95歳であった。
(私の「医人たち」の肖像―〔17〕川崎富作さん①と座談会「川崎病の本態解明をめざして―診断・治療・疫学」~1982104日)