TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(105 )野原重明さん⑦とインタビュー「『個』の医療の展開を―ホスピタル新時代の幕開けを告げる新聖路加国際病院」~1992年6月1日(月)

(105)日野原重明さん⑦とインタビュー「『個』の医療の展開を―ホスピタル新時代の幕開けを告げる新聖路加国際病院~1992年6月1日(月)

1992年6月1日(月)。午後16時~18時のあいだ、新装なった聖路加国際病院の院長室を訪問して、日野原重明先生にインタビューを行った。その時は、H次長、同僚のKIとKHの両君、富永と四人で伺った。事前のアポイントはいただいていたが四人で押しかけたので、日野原先生が驚かれて「大勢でどうしたのですか?」と言われた。
■医学界新聞第2000号記念特集:日野原重明院長に聞く■
199261日( 月):
 聖路加国際病院は少し前に竣工なった新病院に引っ越したばかりだった。引っ越し当日には特別に取材を許されて、TYカメラマンと院内の写真撮影を行っていた。新病院の廊下には万一の機会に備え医療機器を繋ぐことのできる装置が付いていることも売りの一つだった。インタビュー構成をどうするかをいろいろと考えた。半年くらい前、1991年10月30日に慈恵医大における日野原先生の医学生(六年生)向け統合講義・医学総論「ターミナル・ケア」を、招かれて取材したことがあった。「命の選択―延命医学と有終医療」(日野原重明)のタイトルを付けて、医学界新聞・第1986号(1992年3月16日付)に掲載した。この折の取材経験からインタビューを始めた。インタビューは思いのほか上手くいった。冒頭を以下に紹介する。
 ―新病院の開院、おめでとうございます。日野原先生は『有終の医療』ということを、最近、主張されています。これは先生の造語とお伺いしましたが・・・。
 日野原 当時の厚生大臣が「ターミナル・ケア(terminal care )を『週末医療』と訳しているけれども、これは切り捨てるような感じを与える。もっといい言葉はないか考えてください」と局長を集めて話されたのです。その時、日野原先生だったら、何かいい言葉を考えられるだろうと相談を受けました。私は何かいい言葉はないかと思いながら、翌日、高速を車に乗って走っている時に、フッと『有終の美』という言葉を思い浮かべました。人は一生を終わるにあたり、「私の人生はそれなりによかったのではないか」と思いながら最期を迎えられたら一番よいのではないか。そうなるように手助けするのが、「有終の医療」という意味です。
■『有終の医療』の実現を求めて■
 新装なった聖路加国際病院は全室が個室を基本としていた。「『個』の医療の展開を」という言葉が、そのコンセプトを表している。
「『個』の医療の展開を―ホスピタル新時代の幕開けを告げる新聖路加国際病院」のタイトルを付けて、医学界新聞・第2000号の第1~5面に、インタビュー記事を掲載した。英国の内科医で「プライマリ・ケア」の創始者で実践者であるジョン・フライ(John Fry)の特別寄稿「日本:よりよいプライマリ・ヘス・ケア」を、6面には掲載した。さらに、付属のグラフに、「医人たちの20年」のタイトルで過去20年間に医学界新聞に登場していただいた内外の医師、医学研究者の顔写真をコラージュで紹介した。
 記念すべき医学界新聞・第2000号特集が完成した。
地下鉄サリン事件
1995320日:
 この時から3年後の1995年3月20日地下鉄サリン事件が発生した。この折に、新聖路加国際病院の廊下が数百人の緊急患者を受け入れる仮病室になったことは日野原さんの先見の明とし記憶に残る。
( 2019.5.18)

「有終の医療」と『イワン・イリイッチの死』( トルストイ)のこと■

 「ああ俺の一生はそれなりによかったのかな」と思いながら死ぬことができたら最高な一生である。そのような最期を迎えられるよう手助けするのが「有終の医療」である。日野原さんの言葉だ。本日は私たち庶民と同じように平凡な男であったであろうトルストイの小説の主人公「イワン・イリイッチ」に言及したい。  「生老病死」という言葉がある。生きとし生けるもの人に限らず全ての生きものはやがて死ぬ。つい最近、2022年9月22日に恩師の一人KNさんが亡くなった。自分の求めるままに生きて仕事をしてきたNさんも一〇年くらいまえから沈黙していた。「病」と闘っていたのかもしれない。七十歳を前にして亡くなった私の父も晩年の三年くらいは「病」の床にあった。脳梗塞の後遺症に加えてバイクの転倒事故で言葉を失ってしまってから1年近く生きた。旧制三高から京都大学医学部を出て医師であった家内の叔父も晩年は脳出血に倒れ言葉を失って寝たきりの状態で数年を生きた。家内の母親つまり妹が見舞うと手で首を切る動作を行い「早く死にたい」と訴えていたと聞いた。誰にも看取られずに蒲団の中で独り死んでいった私の母親は良い方なのかもしれない。家内の母親つまり私の義母は摘便のあとで急激に血圧が下がってしまい搬送中の救急車のなかでこと切れた。死に方によいわるいは無いのかもしれない。「生老病死」の「老」まできた私に残されたのは「病死」なのだろう。死が身近になった。
 『イワン・イリッチの死』(1884~86)はそのタイトルの示すごとく死を主題としたものである。死はトルストイにとっていっさいの根本となるべき重大なものであった。トルストイという作家は死に憑かれた作家なのであろう。先日、稲城図書館から、『イワン・イリイッチの死』(北御門二郎訳、地の塩書房、1986年12月刊)を借りてきて読み通した。『イワン・イリイッチの死』をロシア文学専攻の私が読んだことがなかったのだ。トルストイが好んで死を描いた作家との認識も恥ずかしながらなかった。新型コロナウイルスの世界的な蔓延に加えてロシアのウクライナ侵攻が重なり私たちのなかで死をとらえ直し考える機運が起こっている。同時にトルストイの絶対平和への希求が見直されているのが今だろう。主人公のイワン・イリイッチは法律を学び裁判所に勤めた一人の平凡な官吏だ。結婚をして家庭を持った。妻が妊娠してからは、「こんなはずではなかった」と思い夫婦喧嘩をしながら、より収入の多い職場に異動をしたりする。やがて「病」を得て死んでいく。平凡なサラリーマンの私たちと全く同じだ。最後のほうにこういう件がある。
 「結婚・・・・ついふらふらと。そして幻滅、妻の口臭、肉欲、虚飾!そして死のような勤務、金の心配、こうして一年、二年、十年、二十年と---いささかも変わらぬ日々の連続である。そして、歳月と共にますます無気力になっていく。まるで、自分は山を登っているつもりでいたら、実は下っていたようなものである。実際のところ、ほんとうにそうだったのだ。世間の眼からみれば、私は山を登っていたが、実はそれだけ自分の足もとから生命が消え去っていたのだ。・・・・そして、さあもういいから---死んでしまえ! というわけである。」
 上記の引用はイワン・イリイッチが晩年になって衰えてきた頃のことである。最後の死の場面はこうである。イワン・イリイッチは、三日三晩、苦しみ喚いていた。
 「突然ある力が彼の胸や脇腹を衝き、ひときわ強く呼吸を圧迫した。と、その拍子に彼はどさりと穴に落ち込み、その穴の底に何か光るものがあった。汽車に乗る時よく経験することであるが、前に進んでいるのかと思っていると、実は後ろへ進んでいたりして、突然、本当の方角がわかるという、そうした現象が彼に生じた。」
 こうして最後のさいごにイワン・イリイッチは喜びに包まれる。何があったのだ?
「彼は以前から馴染みの死の恐怖を探したが、それを見つけることができなかった。死はどこにいる?いったいどんな死だ?恐怖が全然なかった。なぜなら死がなかったから。死の代わりに光があった。「そら、これだ!」と突然、彼は声に出していった。なんという喜びだろう!」
 トルストイは『イワンン・イリイッチの死』で何を言いたかったのだろうか?
 ところで、『イワン・イリイッチの死』の主人公のモデルは、フランスのパスツール研究所の黄金期を支え、「免疫食細胞」の研究でノーベル賞を受賞したイリヤ・イリイッチ・メチニコフの長兄であるという。かつ七歳年長の次兄レフ・メチニコフは一八七四年にロシア語教師として東京外語大学に赴任していた。興味深い縁である。『インフルエンザウイルスを発見した日本人―山内保とは誰か』山内一也著、岩波科学ライブラリー)で知った。
(2022.10.28)

私の「医人」たちの肖像―〔105〕日野原重明さん⑦とインタビュー「『個』の医療の展開を―ホスピタル新時代の幕開けを告げる新聖路加国際病院~1992年6月1日)