TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(7)日野原重明さん④と連載「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」~1981年7月23日(金)

(7)日野原重明さん④と連載「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」 ~1981年7月23日(金)

 

   1981年7月23日(金)。出張校正で港区・新橋の大日本法令印刷に直出した。医学界新聞・第1459号(1981年8月3日付)の校了日だった。
■「アメリカ医療はどうかわりつつあるか―アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」の連載開始■
●1981年7月23日(金):

 日野原重明先生による新連載「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」が始まった。二面に掲載だった。第一面には、6月27日(土)~28日(日)の両日、大阪で開催された「第四回日本プライマリ・ケア学会」の取材記事を掲載した。これは先輩記者のKI君が執筆した。バックナンバーを紐解くと第三面に、第59回日本医学会シンポジウム「脳梗塞の問題と展望」の記事が載っていた。私の書いた初めてのまとまった取材記事であった。駆け出し記者の私には忘れられない第1459号である。
 日野原さんは、1981年の4月に渡米した。病院の役割―その国際的見通し」というテーマの「Macy symposium」に参加のためであった。その折に、米国の病院の実態をつぶさに見聞された。医学界新聞における新連載の趣旨は、次のようだ。
 「アメリカでは病院の悪化やスタッフの確保に困惑しているとのことである。アメリカの医療をある程度模範としてきたわが国にとって、この報告は今後の病院を含めた医療への提言となりうる。」
 連載は、第1回(第1459号、8月3日付)から第11回(第1472号、11月9日付)まで4カ月続いた。それらのタイトルは以下のようだった。
(1)St. Luke’s-Roosevelt 病院訪問、
(2)Duke大学訪問、
(3)Duke大学の医学教育を見聞、
(4)R.B. Williams Jr, W. Anlyanらと会見
(5)Macy Symposium、
(6)Duke大学新病院落成記念式典に出席、
(7)アメリカの看護婦をめぐる現状、
(8)Dr. Bigg教授と再会、
(9)アメリカの病院看護婦等の現状。
■『医学するこころ―オスラー博士の生涯』■
 シリーズ私の「医人」たちの肖像の中で日野原さんを紹介する機会に、1948(昭和23)年に日野原重明さんが書かれた『医学するこころ―オスラー博士の生涯』(新版)を買い求めて読んだ。その第1版「序」には次のように書かれている。
 「私は、アメリカ医学を、あるいはさらに英米の近代医学を今日あらしめた数かずの優れた医人の中に、ウイリアム・オスラー卿を特記したい。私は、少なくともアメリカ医学は、彼オスラー博士なしには論ずることができないとさえ考えている。」
 さらに、次のようにも記されている。
 「オスラーは単に英米の医学の開拓者であったのみならず、身をもって、カナダ、合衆国、英国、ドイツ、オーストリア、フランス、オランダ、イタリア等の医学界との橋渡しとなった。」
 事実、カナダで医師としてスタートしたオスラーは、米国時代も数年に一度はヨーロッパを歴訪しドイツ、フランス等の情報を米国の医学雑誌に寄稿している。
 1948年といえば、日野原さんは若干39歳である。中央医学社という出版社から刊行した『医学する心―オスラー博士の生涯』は、1000部の発行であったとのことだ。戦後まもなく印刷用紙も少ない時代に、未だ無名(であったろう)の医師が書いた「伝記本」を出すことは、出版社にとっても英断であったに違いない。
 上記の本は、岩波書店から、装いも新たに第二版が、1991(平成3)年に刊行された。岩波という老舗で再版されるまでに、実に四三年が経過していた。著者の日野原さんも齢83歳になっていた。
「オスラーを師として私は生きてきた―再び刊行される『オスラー博士の生涯』に寄せて」に、「第2版序」として、日野原さんは次のように書いている。
 「当時(1948年)、日本での医学教育は、終戦後の混乱からやっとたち立ち上ろうとしていたが、アメリカ合衆国の医学教育や臨床医学のシステムを知る文献は非常に乏しかった。日本の医学教育や臨床医学が戦前のドイツ医学の模倣を続けることへの問題点を私は強く意識していたので、私の知る限りの資料を集めて、日本の医学教育と医療の流れを、もっと人道主義的なものに変え、しかも科学的裏づけをしっかりしたいと強く願った。」
米国の医学・医療情報を日本に伝える役割を自らに課した
 オスラーの顰にならい、日野原さんは、米国の医学・医療情報を日本に伝える役割を自らに課したのだと容易に推察される。日野原さんはアメリカの医学・医療と日本のそれとの橋渡しの役割を意識していたのだと思う。日野原さんのアメリカ医学・医療見聞記を読むと、作家の小田 実さんの「何でもみてやろう」を思い起こす。「何でも見てやろう―アメリカの医学・医療」という雰囲気を感ずる。
 頂戴した玉稿は特徴のある走り書きで、担当した同僚のKI君も解読に苦労していた。新人の私はその作業を脇からみていて、「お忙しいなか日野原先生も良く書いて下さるなあ」との感想を持った。不覚にもその中身の持つ意義には気がつかなかった。
 「アメリカ医療の現状と大学・教育制度の将来展望」を、連載で医学界新聞に寄稿頂いた1981年、日野原さんは70歳で、聖路加国際病院臨床医学教育顧問という立場であった。当時としてはかなりの高齢者の範疇にあったろう。聖路加国際病院での所属は、定年(があったら)後の特別の立ち位置であったのではないだろうか。新米記者の私は若干三四歳だった。幸せな出会いであった。
(2019.6.8)


(私の「医人」たちの肖像―〔7〕日野原重明さん④と連載「アメリカ医療の現状と大学・教育制度