TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(2)日野原重明さん②と『医療と教育の刷新を求めて』~1979年12月13日

(2)日野原重明さん②と『医療と教育の刷新を求めて』~1979年12月13

 

「これから私は世間へ出ようとしている。ひょっとすると、自分は何にも知らないのかもしれない。それなのに、もう新しい生活がやってきてしまったのだ」
  (ドストエフスキー『白痴』 木村 浩訳)
 私はまるで、夜汽車でモスクワに出てくる『白痴』の主人公・ムイシュキン侯爵(「お馬鹿さん」)の心境であった。
 1971年4月1日から東京・文京区本郷にある医学書院という医学系出版社での勤務が始まった。社会に出て、アルバイトではなく初めて専業で働くことになったのだ。北海道大学文学部露文科を卒業して、全く畑違いの医学系出版社で口を糊することになった。
医学英語って面白いな■
●1971年4月1日:

 就職した医学書院における最初の配属は洋書部で、医学書籍や医学雑誌を海外から輸入して販売する仕事に携わった。精神医学は、Psychiatry (サイカイヤトリ)、糖尿病はDiabetes Mellitus (ダイヤベテス・メリタス)、等々、医学英語の修得から始めた。そのうちに、販売業務のみでは飽き足らず、医学という分野そのものに興味を持ってきた。
 医学は自然科学の一分野であるが、生身の人間を扱う実学であるので、人間学というか人文科学に近いことがわかってきた。そういえば、ロシアの作家チェーホフは医師であった。日本人作家の安倍公房も、「忍者もの」で著名な山田風太郎も医師だというではないか。医学・医療そのものに目が啓かれてきたのである。
 職を得た医学書院では、PR部から「週刊医学界新聞」という医師・医療従事者向け週刊新聞を発刊していた。毎週月曜日が発行日で、全社員に無料で配布される。この新聞を興味深く読み始めた。執筆者として頻繁に目にするお名前に日野原重明先生(聖路加看護大学)がおられた。
 日野原さんが、各種の雑誌等に書いた論文やエッセイをまとめ、『医療と教育の刷新を求めて』(1979年、医学書院刊)という単行本を出版した。1600円という定価なので安くはない。これを社員割12%引、1408円で購入した。購入伝票の挟まった本が今も手元にある。
 概要を再読してみた。
■「医療と教育の刷新を求めて」■
●1979年12月13日:
 
日野原さんは、1937(昭和12)年に、京都帝国大学医学部を卒業して医師となった。卒後二年余は真下内科医局に属し、循環器医学の手ほどきを受けてかⅠ年で成功して、次の一年で記録した患者の食道内心音図の分析から心房音の研究をまとめた。このあと、臨床医学を深める道を探して、大学の医局ではなく野にでる方向を選んだ。こうして日野原さんは、昭和16年9月、東京・築地の聖路加国際病院に勤務することとなった。
 
「箱根峠を越えたら東京エリアだから、京都からの手は届かない。君は孤立無援になるが、その覚悟はあるかね」という趣旨の言葉を、恩師の真下教授からかけられたと、日野原さんが何処かに書かれていたのを読んだことがある。その年の12月8日に、パールハーバーを皮切りに日米戦争が始まった。数年して終戦後は、聖路加病院は米軍に接収された。
 
暫くして、昭和26年9月、平和条約締結と期を同じくして、日野原さんは米国・エモリー大学に留学した。そこで、有名な「Cecil 内科学」の編者となったビーソン(Paul B. Beeson)教授の下で、一年間内科学を学んだ。日野原さんは次のように書いている。
 「
臨床医学の知識と技術を学ぶために私を動機づけ、臨床医学を身につける原動力となったのは、この一年間の充実した生活の所産だと信じている。私は、この一年間に、システムのある教育が若い人を如何に成長させるかを眼の前に見、日本の医学教育の中に、このシステム化と、教育への情熱という“パン種”を持ち込む必要を痛感し帰国した。」
 『医療と教育の刷新を求めて』のまえがき「―私の考えや主張をまとめて出版するにあたって―」に、日野原さんは次のように述べている。
 
「ここに一冊の本としてまとめた内容は、過去約十五年間に私がいろいろの機会に講演をし、あるいは寄稿したものである。」
 一
年間の留学で仕込んできた“パン種”を日本の医学・医療のなかで発酵させる試みを、十五年間にわたり続けてきたのだ。日野原さんの“パン種”から発酵した医学・医療の新しい考え方―「成人病に替わる習慣病という言葉の提唱」、「プライマリ―・ケア」、「診断を考え直す―POSの必要性」等々が、この本の中で開陳されている。
 
今ではすっかり人口に膾炙した感のある「生活習慣病」という言葉と概念であるが、日野原さんによって、四十数年前に提唱されたものであることは知る人ぞ知る。本書の中で、「成人病に替わる習慣病habit diseaseという言葉の提唱と対策」の章を、日野原さんは次のように結んでいる。
 「
私が尊敬している英米医学の大指導者であり、内科医であったウイリアム・オスラー卿(1849~1919)が、医学生に対してなした講演の次の言葉は、よき習慣作りが、体だけではなしに、心をもすこやかにはぐくみ育てることを、極めて明瞭に表現をしているので、そのことばをここに紹介する。『からだをすこやかに保つ役に立つ習慣は、こころもすこやかにはぐくみ育てる』(1978年9月)」
■日野原さんに会いたい■
 
日野原さんの本を読んでみると、医学・医療が、とても人間臭い(当然なのだが)ものに感ぜられるようになった。入社して三年後の1973年頃から、当時の田中角栄首相の時代に医師不足を解消するために、「一県一医大構想」が提唱され、全国各地に医科大学、医学部が新設されるようになった。次の部署では、新設医大医学書籍や医学雑誌を納入する業務に従事しながら、日野原さんの書かれる文章を少しずつ読んでいた。
 
毎年四月の人事異動前に実施される異動希望調査票に、希望部署として「医学界新聞」と、書き続けた。「ひとはパンのみにて生きるにあらず」と、コメントを書き添えた。「より意義あると感じられる業務に携わりたい」という希望を、言外に匂わせたつもりだった。
(2019.6.9)
(私の「医人」たちの肖像―〔2〕日野原重明さん②と『医療と教育の刷新を求めて』~1979年12月13日)