TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像―(120)廣井久彦さんと「妻の子宮筋腫の手術」 ~1994年2月9日(水)

(120)廣井久彦さんと「妻の子宮筋腫の手術」 ~1994年2月9日(水)

 

 1994年2月7日(月)。川崎市多摩区登戸の稻田登戸病院に、妻のY子が子宮筋腫の手術のために入院した。北病棟5階の578号室。午前9時~午後14時まで休暇を取得して、病院に送り届けて夕方から出勤した。本日の記述は文字通り「自分史」になる。

■子宮全摘手術の経過(手帖より)■
1994年2月9日(水):

手術日:1994年2月9日(水曜日)。一日休暇を取得して対処した。午後15時9分:手術室へ入室。17時5分:手術が終了した。手術時間:およそ2時間。17時40分:手術室から出る。17時45分:578号室に戻る。「終わったよ」と私がいうと、「うん」と応えた。

概要:子宮全摘(腫瘍は胎児頭位の大きさとのこと)。手術切片をみせて貰った。子宮内膜症が少しあった。組織切片を念のために病理検査へ廻した。組織検査の結果は1か月後に判明する。輸血はなし。順調な手術であった。術後の感染症予防のためにセフゾン100を投与した。
 主治医で執刀医は、廣井久彦先生であった。廣井久彦先生は1992年に東大医学部を卒業して2年目の若い医師であった。手術の説明の際に、手術術式について丁寧に模式図を描いて説明してくれた。「これがインフォームド・コンセントなのか」と実感した。術後に切除標本実物(子宮の肉の塊)を供覧して頂いた。私が勤務していた医学書院で発行していた雑誌『臨床婦人科産科』の編集委員であった廣井正彦先生のご長男であった。術前診察の際に、お名前が廣井正彦先生に似ていたので、「山形大学の廣井教授のご親戚ですか」と思い切ってお尋ねした。「廣井正彦は私の父です」とお応えになった。なんだか信頼感が増した感じがした。廣井正彦先生は、産婦人科領域で著名な先生であった。特に「低用量ピル」の解禁に向けてオピニオン・リーダーであった。この頃から数年後に日本でピルが解禁された。
 1994年2月12日(土)。川崎市北部に雪が降った。車で子どもたちを連れて稲田登戸病院に見舞いに行った。2月15日(火)は、午後18時過ぎ、会社の帰りに登戸病院に見舞った。2月17日(木)も午後18時過ぎに、帰路に登戸病院を見舞った。2月20日(日)午後、車で迎えに行った。妻のY子は無事に退院した。

■稲田登戸病院の閉院
●2006年3月31日:

稲田登戸病院は、国家公務員共済連合会立の病院であった。東京・虎の門病院と同系列である。1949年に設立されたこの病院は、川崎多摩地区の中核病院であったが、2006年3月31日を以て閉院して今は存在しない。

廣井久彦先生は、その後アメリカ留学を経て、東大医学部産婦人科に戻られて勤務された。そして、現在は東京都・町田市で「廣井ウィメンズクリニック」という病院の院長さんだ。地域医療に貢献されていると知った。
(2019.6.15)
(私の「医人」たちの肖像―〔120〕廣井久彦さんと「妻の子宮筋腫の手術」~1994年2月9日)