TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像― (116)日野原重明さん⑨と「地下鉄サリン事件」 ~1995年3月20日(月)

(116)日野原重明さん⑨と「地下鉄サリン事件」~1995年3月20日(月)

 

1995年3月20日(月)。国会議事堂のある霞ヶ関を狙った地下鉄サリン事件が、午前8時頃に勃発した。当時としては平時の大都市において無差別に化学兵器が使用された、世界にも類のないテロリズムであった。

■私も通勤途上だった■
●1995年3月20日(月):

小田急線の新百合ヶ丘7時30分発の電車に、通例通りに乗った。代々木上原で千代田線に乗り換え、さらに国会議事堂で丸の内線に乗り換え、本郷三丁目下車の経路で通勤予定であった。このルートの通勤定期券を持っていた。しかし、珍しくその朝は登戸駅で、目の前の座席が空いて座れた。乗り換えが面倒なので新宿まで行った。新宿駅JR総武線に乗り換えて、お茶の水駅で、歩いて地下鉄丸ノ内線に乗り換えて、本郷三丁目へ行く経路で出勤した。
 午前8時40分頃に、本郷三丁目駅から徒歩5分の勤務先に着いた。会社に着く頃から何やら消防自動車や救急車のサイレンがけたたましく聞こえていた。近辺で交通事故でも起こったらしいと思っていた。このサイレンが地下鉄サリン事件勃発の音だったのだ。この日、偶然ともいえる通勤経路変更により、私は霞が関を通過する地下鉄車両に乗車しなかった。

■空前の地下鉄サリン事件

宗教団体オウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)の地下鉄車両内で午前8時頃に神経ガスサリンが散布された。事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため、営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方、千代田線、丸の内線で不審物・刺激臭の通報があったのみで、被害発生の確認が遅かったため、地下鉄の運航が継続された。このテロにより、営団地下鉄丸ノ内線日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡し、負傷者数は約6,300人に上るとされる。

■緊急事態に対応した日野原重明さん■

この事件により、東京23区に配備されているすべての救急車が出動したが、災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、救急車が来ない、来ても搬送が遅いという状況が見られたという。
 大きな被害の出た霞ヶ関から近い築地駅至近の聖路加国際病院は、日野原重明院長(当時)の方針により、大量に患者が発生した場合に備え、病室だけでなく院内のすべての廊下に医療機器を接続できる設備が完備されていた。日野原重明院長による、「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との英断による宣言のもとで、被害者の無制限の受け入れを実施した。聖路加国際病院は、被害者治療の拠点となった。

■編集会議―神経系細胞のアポトーシス

当日、3月20日(月)の夕刻、18時~19時45分に、東京・文京区本郷の勤務先社屋で、雑誌『神経研究の進歩』の編集会議を行った。出席者は、高坂新一(国立精神神経センター・神経化学)、彦坂興秀(順天堂大学・生理学)、真柳佳明(警察病院・脳神経外科)の三先生だった。会社側からは、EO次長に担当者MKさんと私の三人が出席した。雑誌『神経研究の進歩』第40巻2号(1996年4月号)の特集「神経系細胞のアポトーシス」の細目を編集会議で決定した。企画立案を、神経化学が専門の高坂新一さんにお願いした。
 その時には、サリン事件の重大さに私たちはまだ気がついてなかった。インターネットは始まっていたが、携帯電話はもちろんインターネットは未だ普及していなかったので、情報伝達は緩慢であった。夕刻から編集会議を予定通りに挙行した。サリンという神経毒を使った空前のテロが起こったとは知らずに、「神経系細胞のアポトーシス」の特集を討議した偶然に驚嘆する。

(2019.7.1)

(わたしの「医人」たちの肖像―〔116〕日野原重明さん⑨と地下鉄サリン事件~1995年3月20日