TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(119)岩田 誠さんと国際シンポジウム「ババンスキーと錐体路」~1996年2月22日(木)

(119)岩田 誠さんと国際シンポジウム「ババンスキーと錐体路」~1996年2月22日(木)

1996年2月22日(木)。東京女子医大の弥生会館で開催された国際シンポジウム「ババンスキーと錐体路」に、午前9時~午後19時まで参加した。岩田 誠先生(東京女子大神経内科教授)に勤務先の医学書院で発行していた雑誌『神経研究の進歩』の編集委員を委嘱していた関係で研究会に招かれた。雑誌の担当のMKさんと一緒に参加した。

■ババンスキー生誕140周年■
●1996年2月22日(木):

国際シンポジウムは、フランスの神経科医師ジョゼフ・ババンスキー(Joseph Babinski,1857~1932)の生誕140年を記念して開かれた。1896年2月22日にフランスでババンスキー徴候の最初の報告が行われた。1996年2月22日は、ババンスキー徴候の100周年記念日だった。

シンポジウムでは、(1)ババンスキー徴候の発見、(2)ババンスキー徴候の意義、(3)錐体路の基礎、(4)錐体路の臨床、の4つのセッションが行われ盛況であった。

ババンスキーの生涯■

ポーランド人であったババンスキーの両親は、1848年にワルシャワからパリに亡命した。1857年、パリでババンスキーは、生まれた。成長して医師となった。1884年、サルペトリエール病院に職を得て、シャルコー(Jean Martin Charcot)のもとで、医長の一人となった。1890年にパリ病院の医長となり、「ヒステリーは暗示によって起こる」とする説を展開した。1903年にババンスキー反射を発見した。フランス神経病学会の共同設立者の一人であり、1914年には医学アカデミーの会員に選出された。
 ババンスキーについては、東京大学出版会刊から出された『神経学の源流Ⅰババンスキー(蔓年 甫編訳)』という貴重な本を持っていることを想い起し、書棚から探してきて再読した。『経学の源流Ⅰババンスキー(蔓年 甫編訳)』は、昭和43(1968)年に出版した初版を、平成4(1992)年に増補版として出版したものである。俳人でもあった脳外科医の中田瑞穂さんが、「読み初めやババンスキーももう古典」という句とともに「序」を寄せている。

この本は、第1章 ババンスキーとシャルコー―学問の系譜・その生涯と業績―から、第8章 神経症候学序論―ババンスキーの根本的立場―まで、ババンスキーの業績が詳細に網羅されている。このあと、有名なアンドレブレイエ筆、サルペトリエール病院蔵「シャルコーの臨床講義(1987年)」を解説した「『サルペトリエール病院の臨床講義』後日談」に次いで、岩田 誠さんが書かれた「神経学墓参―ババンスキーの墓を訪ねて」といいう一文が掲載されている。

■「神経学墓参―ババンスキーの墓を訪ねて」■

  • 1985年8月:

1985年8月末、岩田さんはハンブルグでの第13回世界神経学会に出席のため渡欧した帰路に、ハンブルグからパリへと移動した。さらにババンスキーの墓を探すため、蔓年 徹さんと一緒に、モンモランシー(Montmorency)まで足を伸ばした。第12回世界神経学会が1981年9月に京都市で開催されたことは既に触れた。その4年後のことである。曲折を経ながらも無事にババンスキーの墓所を探しだした件が、岩田さんによる上記のエッセイ(紀行文)に生き生きと描かれている。岩田さんの一文は次のように結ばれている。

「当時の、フランス人が多数のポーランド難民を受け入れることをしなかったら、ジョゼフ・ババンスキーはシャルコーの下で神経学を学ぶことはなかったであろうし、そうなれば、私達は、足の裏をこするだけで錐体路の病変を見つけ出すという、この症候学の魔術を知ることなくして、神経病患者の診察をしていたかもしれなかった。モンモランシーの町は単にババンスキー一家に墓所を提供しただけでなく、フランスに、いや世界中に神経学の偉大な発見を贈ってくれたといえるのである。」
(2019.7.3)

(私の「医人」たちの肖像―〔119〕岩田 誠さんと国際シンポジウム「ババンスキーと錐体路」~1996年2月22日)