TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

令和の終戦記念日―8月15日に寄せて!

 終戦から74年となった本日8月15日、全国戦没者追悼式が日本武道館において政府主催で開かれた。
 ■令和の全国戦没者追悼式■
 正午に珍しく私は自宅にいた。テレビで正午の時報と共に黙祷に私も参加した。次いでこの5月に即位した令和天皇陛下が、昨年までの平成天皇(現上皇)と同様に、「深い反省の上に立って、再び再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」という言葉を交えて「おことば」を述べた。令和天皇の肉声はかなり若々しく力強さを感じた。天皇が私よりも若いのは初めての経験なので自らが長く生きたと感じた。平成天皇(当時の皇太子)が正田美智子さんと結婚された昭和30年は, 私が小学2年生の時だった。令和はつの追悼式には全国の遺族約5300人が参列した。先の大戦(第二次大戦)の戦没者は約310万人に上るという。平成の30年と4カ月は、私が社会人として働いてきた時代と重なる。平成時代で最も幸いなことは日本が戦争を体験しなかったことだ。改めて平和の大切さと有難さを私は噛みしめた。
 ■戦争に行く父親と子どもの心■
 本日の朝日新聞の朝刊に「戦死の父 223通の愛」という見出しの辛い記事が載っていた。千葉県に在住の稲田真紀子さん(79歳)の父が、戦地のビルマ(現ミャンマーから家族に送ったものだ。繰り返し妻子を案ずる言葉がつづられている。「マコチャンハトウチャントオベントウヲモッテ、デンシャノッテ、ドウブツエンニユキタイトイッテイルサウデスネー。トウチャンモマコチャンヤボウヤトイッショニオベントウヲモッテ、ユクヨウニナルノヲ、タノシミニシテオリマスヨ。ソノトキマデゲンキデ。(1943年12月31日付)」このハガキを書いた高橋修巳さんは、1944年3月から始まったインパール作戦に参加。6月にインド側のライマナイで戦死した。33歳だった。真紀子さんが、亡くなった母から受け継いだ父からのこの手紙を、読めたのは遂12年前のことだという。真紀子さんは、「切なかった。こんなにも心配して思ってくれていたのだと、父の無念を思った。」と述べている。33歳で妻と二人の子ども(しかも長男は出征後に生まれたので顔も見ていない)を残して死んでいった無念さ辛さは如何ばかりか。
 ■生きて帰れても戦争の記憶が人の心を蝕む■
 かくいう私の父(大正2年生まれ)も聞いたところによると二度の出征を経験していた。私の兄は1941(昭和16)年の真珠湾攻撃の日に生まれた太平洋戦争の時には家にいて銃後の守りについていた。私は終戦後2年目の1947年1月7日に生まれた。父は大陸(上海)に行ってきたと言っていたから、1937(昭和12)年からの「日支事変」に参戦したのだろうか?「事変」と言っているが、これは日中戦争だ。戦争については父は全く語らなかった。家の大掃除の折に引き出しの中から中国(たぶん上海)の街や何やらの写真が出てきたりしたの見たことがる。父はわが子を愛する術を知らなかったと思う。大人になって自らが父となったときに、父は戦勲をたてたこと(殺さざるをえなかったこと)の記憶から逃れられず、自らのこどもたちを素直に抱きしめて愛することができなっかのではないかと私は想像した。わが子を抱くことが叶わず戦死した稲田さんの父も、生還して子どもを持った私の父も実は共に戦争の犠牲者であったのだと思う。
  ■父を歌える■
 あの人は 家庭を持つべきでなかったと兄は言い あの人は父
 寂しきは 父になりし兄 父になりし我 父を呪いき