TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『戦争と平和』を2ヶ月かけて読んだのでトルストイにはまりそうだ ~ようやくロシア文学科卒と言えるかな?

 『戦争と平和』を2ヶ月かけて読んだのでトルストイにはまりそうだ。ようやくロシア文学科卒と言えるかな?というところだ。「戦争と平和」の主だった主人公は貴族であり、大金持ちであり、女性たちは貴族の美しいお嬢さんなのだ。一方、ドストエフスキーとくれば、「われわれはゴーゴリの外套からでてきた」というように、ちっぽけな孤独な冴えない小市民が主人公だ。出てくる女性も使用人であったり娼婦であったりする。やはり私にはドストエフスキーの方が馴染みがあったのだと思う。「病という才能」もドストエフスキーのものだった。

 さて、『戦争と平和』を読んでみると、『神の王国は汝らの内にあり』(トルストイ、市橋善之助訳)を古本屋で買って持っていた。読みだしたが活字が小さくて読みにくい。『ソ連科学アカデミー編 トルストイ研究』(小椋公人訳、未来社)を持っているのを思いだした。この中に『「戦争と平和」―国民的英雄の叙事詩』(エス・ペー・ブイチコフ)という論文が載っていた。『トルストイ論』(本多秋五河出書房新社昭和35年)が本棚から微笑みかけてきた。読み始めたら面白い、というよりわかりやすい。それは本多さんの執筆意図から来るものとわかった。

 <『戦争と平和』論の多くは、トルストイにおける霊と肉の対立を語り、意欲者トルストイと諦観者トルストイとの分裂を語り・・・・(略)
 ある作品を論ずるためには、作中諸要素をの結合を包容しうる立場にたたねばならぬーーという意味では、論者は作品の最大公約数だけでは掴んで居なければんるまい。僕は、『戦争と平和』の物語的発展の跡を忠実に辿ることによって、とにもかくにも、『戦争と平和』がつつむ国土を全体として一瞼のうちに収める地点にたちたいと思う。

 本多さんがうえのような視点で書いている。この本を読めば「戦争と平和」を理解しやすいというものだ。そのあとで北御門二郎さんの訳で『戦争と平和』を読み直してみたいと思う。

トルストイ論』(本多秋五)■

第一章 一八〇五年
<第一編は、三つの部分から成っている。第一はペテルブルグの場面。第二はモスクワの場面。第三は田舎。・・・作者はの三つの場面に対して、主要な四家庭を廃している。>

(1)クラ―ギン家:当主ヴァシーリー公爵。イッポリートとアナトーリの二人の息子、令嬢エレン

(2)ロストフ家: 当主イリヤ伯爵、伯爵夫人、ニコライとぺーチャの二人の息子。ヴェーラとナターシャの二人の娘、他に養女のソーニャ。

(3)ベズーホフ家: ベズーホフ伯爵、息子のピエール

(4)ボルコンスキー家: ボルコンスキー老公爵、息子のアンドレ、妹のマリヤアンドレイの妻リーザ。

 「戦争と平和」には五百何十人を超える人物が登場するが戦争場面ではなくてロシアの貴族社会の場面では上に纏めた人物(太字)が主要な人たちである。それにしてもロシアの貴族というのは途方もない地主であるようだ。イギリスの地主貴族の土地と家敷も広大であると聞いたことがある。ロシアの貴族も広大な土地と家敷と別荘を幾つも持っている。農業経営者の様相を呈している。称号にしても公爵、伯爵はどうちがう? 調べてみた。「侯爵」は「公爵」の下位で、「伯爵」の上位とのことだ。順番は「公爵」⇒「侯爵」⇒「伯爵」という順番になる。

ということで、本多さんの本を読みながらトルストイの「戦争と平和」を読み解いていきたい。といいながら本多さんが「序説」でこういう解説を書いていた。

 <この小説の主題は、いかに生くべきか?の探求である。より正確にいえば、いかに生くべきか?の探求が、いかに現実を肯定すべきか? に展開されるとところに、この小説がある。

 こういう解説を読んでしまうと面白くもなんともなくなってしまうかもしれないが、よくわかる気がする。壮大な戦争の日々を経てアンドレイは死んでしまい、その後にピエールと結ばれたナターシャは子どもを次々と生んで育てる「日本のお母さん」に変貌する。唐突だが、なんだかまるで伊藤野枝のようでもある。

 本多さんはこういう解説をしている、
 <物語の最後において、ピエールは「完全な意義における紳士(ゼントルマン)になる。妖姫ナターシャは「多産な牝」となり、ニコライは「隣人の幸福ななんてものはみんな詩だよ。女の寝言。」と放言するに至る。

 トルストイは、アンドレイとピエールに自己を投影して作中人物を作っているらしい。その観点からみると幸せな結婚をして安定した家庭のなかで『戦争と平和』を書いたトルストイ自身は、晩年には家庭を捨てて家出して野垂れ死にすをするのである。

 ともあれ、本多さんの「トルストイ論」を読み継いでいく。6月10日からの禁酒のお蔭で本が読める。いま私は「いかに生きるべきか」を考えている。77歳にしてそうなのである。既に残された時間は少ない。だが、いかに生きてきたか? いかに生きるべきか?「お天道さま」に恥じる生き方をしてこなかったか?、を考えている。

 最後に今日の気になる人を書いておく。

(1)中釜 斉 (ひとし)さん:
 「朝日がん大賞」を受賞した国立がん研究センター理事長。よりよい治療につなげるために、がんや難病の患者の全ゲノム(遺伝情報)を「解析する国の事業が2025年度から本格的に始まる。その準備室長としてゲノム医療を推進してきた。1991年、米国に留学中、研究室全体が「ヒトゲノム計画」に関わっていた。苦労の末、ヒトゲノムを解読。ゲノムから薬が開発され、がんの原因も推測できるようになった。
 「ヒトゲノム」が解読されたが、それで人間の全てがわかったわけではない。がんが遺伝子の病気であるとすれば、がんは治せる病気となるかもしれない。しかし人はモータル(しぬもの)であるから生きる価値があるのかもしれない。