TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「PCR 相談 目安変更」の記事を読んでの感想と補足

PCR 相談 目安変更―息苦しさや高熱あればすぐ」という大きな見出しの記事が2020年5月9日(土)の朝刊のトップ記事に載っていた。新型コロナウイルス感染拡大が進行してきたときに、PCR検査がなかなか受けられないということだった。PCR検査には手間及び経費がかかるがそんなに難しいものでは無いと思うのだが、何故だろうと不思議に思っていた。PCRの技術ができた1980年代の後半には既に「宝酒造」がPCR検査機器の小型化を進めていた。たしか何かの医学会の利き展示会場でPCRの機器の実物を見たことがあった。小型テレビかおプリンター位の大きさであったと思う。「宝酒造」というアルコールの会社もバイオに進出して生き残りを図っていると思った。さて、この機会に上記の記事のことを記憶と記録のために纏めておきたい。

 厚生労働省は5月8日、新型コロナウイルスへの感染を調べるPCR検査をめぐり、保健所などの相談センターへ相談する目安を改めた。37度5分以上の発熱などの条件を削除して、いき苦しさや強いだるさ、高熱などの強い症状がある場合はすぐに相談するように求めた。高齢者や糖尿病など基礎疾患がある重症化しやすいひとは、軽い症状でもすすぐに相談するとしている。軽い風邪症状でも4日以上続く場合には必ず相談するとしている。
 当初の目安は2月17日に政府の専門家会議がまたおめ、厚労省都道府県に通知したものだった。軽症者が医療機関に殺到して医療崩壊するのを防ぐ狙いから、「37.5度以上の発熱が4日以上続いた場合」という条件を付けて敷居を高くしたようだ。しかし、軽症と思われて自宅にいたひとが急激に重症化して死亡した例も起こったので基準を改めたものだ。

PCR検査機器のこと■
 PCR検査機器はいろいろな会社で作っているのだろうか? SRLといったような検査会社は、PCR機器を沢山備えていて一日に何千何万の単位で検査できるのではないのか? 因みに、「タカラバイオ株式会社」のホームページを調べたら、興味深い社告(広告)を見つけた。概略を紹介する。
 「タカラバイオ株式会社は、新型コロナウイルスSARS-CoV-2)を、検体からウイルスRNAを精製する前処理工程をひつゆおとせず、反応時間が1時間未満で、迅速、簡便に検出可能なPCRキット、を、5月1日より販売開始します。本キットは研究用ですが、国立感染症研究所により検査データの精度確認がなされ、行政検査に使用できるだけでなく、公的医療保険の適用対象ともなります。」

 発売がこの5月1日とのことなので、緊急に販売したのだろうか? ともあれ、必要な検査が迅速かつ簡便になされるのは必須のことだ。

藤原新也さんからのメッセージーコロナ禍 人々は変われますか?

 藤原新也さんの顔写真を新聞で見た。白髪で額にしわがある。自身による撮影だという。藤原さんは76歳だというから私よりも3歳年上である。「男の顔は履歴書」というが良い顔をしている。でもかなり老成した感じもする。すこし憂いを含むようでもある。藤原新也といえば、「印度放浪」で鮮烈なデビューをした。多分、1980年代の初めだった。当時、大枚(1500円位?)をはたいて購入して、「印度放浪」を読んだ。本棚を探したが見つからない。誰かに進呈してしまったのかもしれない。この本は、小田実さんの「なんでも見てやろう」のインド放浪版として読んだ記憶がある。すごい人もいるものだと、サラリーマンになって間もない私は、驚きと憧れをもって読んだ。

 さて、件の記事は、「いま聞く―コロナ禍 人々は変われますか」というインタビュー構成の記事だ。(朝日 編集委員 秋山訓子)興味を惹いた部分を引用する。


 <藤原さんには、文明や自然が臨界点に達したところで起きたウイルス禍は、人間社会や自然に正常に戻ろうとするホメオスタシス(恒常性)が働いているようにも見えてしまうという。「温暖化を「食い止めようと日本を含む世界はCO2の削減目標を定めているが、突然現れた新型コロナウイルスは罰系システムが働いたかのように世界をロックダウンさせ、ひょっとするとCO280%くらいの削減を強制しているのではないか。・・・・巨視的に見ると、今は新緑の季節だけど首を絞められっぱなしだった自然が深呼吸をして鮮やかさを増しているようにも見える。」>

 <自由に絵掛けられず、人とも会えない。「だが、飽食時代の欲望全開の自分を見つめ直す禁欲生活に入っているという見方もできる。人間関係で言えば、こおれだけ人恋しさを蓄えられる状況はないわけでしょ。」>

 ものは,見方、考え方でずいぶん違うんだと、藤原さんは言っている。5月の新緑が何故か私には寂しく見えたが、自然の力が久しぶりに息を回復したと考えると余裕も生まれる。ここ数カ月間会えないでいる孫たち、丘歩きの友人たちへの人恋しさも大切にしなさいとのンメッセージ、として読んだ。

 

私の「医人」たちの肖像―(82)太田成男さんと「PCRの原理とその幅広い応用」 ~1990年2月

(82)太田成男さんと「PCRの原理とその幅広い応用」~1990年2月

 

 新型コロナウイルス感染を確認する検査方法としてのPCRが脚光を浴びている。PCR(Polymerase Chain Reaction)が、米国のキャリー・マリス(Kary Mullis)により、1985年に開発されたことは既に触れた。
 PCRは、分子生物学研究にとって必須のツールとなった。PCRこそが分子遺伝学、遺伝子工学の進展に大きな役割を担ったと言っても過言ではないだろう。私の「医人」たちの肖像シリーズにおいて、香川靖雄さんと自治医科大学で開催された「生化学教育国際ワークショップ」を先にとりあげた。この「ワークショップ」(1986年5月7~8日)の取材で、自治医大生化学教室を訪問した。当時、自治医大生化学教室の助教授が太田成男さんだった。この折に太田さんとの知己をえた。
PCRの原理とその幅広い応用■
●1990年2月:

 「今年の単語」(word of the year)にPCRが選ばれたことがあった。このニュースに接して、私は当時担当していた「医学界新聞」の記事にした。さらに、これだけ話題性ある「PCR」なら詳しく紹介する価値があるだろうと考えた。そこで、太田成男さんにPCRについて解説の執筆を依頼した。「PCR―原理とその幅広い応用」というタイトルで、太田さんは執筆して下さった。この原稿は、医学界新聞・第1886号(1990年2月頃)に掲載した。掲載紙が手元にないので詳細に触れられないが、タイムリーな記事であったと思う。
PCRの開発でノーベル化学賞に決定―マリス博士■
●1993年10月:

 三年後、1993年10月、PCR開発者のキャリー・マリスは、PCR発明の業績でノーベル化学賞に輝いた。1993年ノーベル化学賞は、マリスとスミス博士の二人受賞であった。
 以下、医学界新聞・第2068号(1993年11月15日付)から記事を再掲する。
 「1993年のノーベル化学賞は、米国のサイトロニクス社役員のKary M. Mullis、カナダのブリティシュ・コロンビア大教授のMichael Smithの両博士に贈られることが、さる10月13日、スウェーデンの王立科学アカデミーから発表された。両博士は、DNA化学における革新的技術開発への貢献が評価された。Mullis博士は、1985年にポリメラーゼチェイン・リアクション(PCR)法を開発した。PCR法は、極微量のDNAから特定のDNA塩基配列を簡便に、かつ短時間に大量に増幅させる技術。それまで、膨大な時間と労力を必要とした遺伝子増幅の捜査に革命をもたらした。」
 さらに、マリス博士は、ノーベル賞に先立ち、1993年4月にPCR開発の業績で、第9回日本国際賞(Japan Prize)を受賞している。日本国際賞では、賞状・賞牌に加え、賞金5000万円が授与された。ノーベル化学賞は二人受賞であったので、賞金9000万円は折半であった。マリス博士は、1944年の米国生まれで、若干48歳であった。名誉と富を一気に手に入れたのだ。若いだけでなく、LSDの使用経験を公言し、かつ現役のサーファーでもあり、破天荒な科学者であった。
 1998年に自伝的な科学的エッセイ“Dancing Naked in the Mind Field”を出版した。この本は分子生物学者で科学ジャーナリストともいえる福岡伸一博士の邦訳『マリス博士の奇想天外な人生』(2002年、早川書房)で手にとることができる。自由奔放で赤裸々なマリス博士の人柄とPCR開発の現場と経緯を、私たちは余すことなく知ることができる。キャリー・マリスさんは、2019年8月7日、カリフォルニア州ニューポート・ビーチで逝去された。
 太田さんとは、その後に仕事上の接点はなかった。太田さんは自治医科大学助教授から、1994年に日本医科大学老人病研究所教授(その後は細胞生物学分野大学院教授)になられた。今では名誉教授になられていると思う。
 本日は、PCRを契機に、昔の想いでから太田成男さんに執筆いただいた「PCRの原理とその幅広い応用」に触れた。
(2020.5.9)


(私の「医人」たちの肖像―〔82〕太田成男さんと「PCRの原理とその幅広い応用」~1990年2月

 

PCR検査と新型コロナウイルス感染

 新型コロナウイルス感染が焦眉の課題になってからPCR検査が何かと話題になっている。この機会に、PCR検査について記憶と記録のために纏めておきたい。実は、PCR(Polymerase Chain  Reaction)ができたのは1983年のことだから、まだ37年しか経っていない。私が医学医療の専門誌の記者になったのは1981年のことだった。その2〜3年後に、PCRの原理をまとめた洋書が日本でもベストセラーとなった。まだインターネットのない時代だったので、新しい技術は書籍や雑誌論文で読んで情報を入手するしかなかった。

 ■PCRって何?■
 PCRは日本語では、「ポリメラーゼ連鎖反応」という。これは、DNAサンプルから特定の領域を週百万~数億倍に増幅する技術である。DNAポリメラーゼと呼ばれる酵素の働きを利用して、一連の温度変化のサイクルを経て任意の遺伝子領域やゲノム領域のコピーを指数関数的に(連鎖的)に増幅することで、少量のDNAサンプルからその詳細を研究するのに十分な量にまで増幅することができるようになった。この技術が開発されてから分子生物学が格段に進歩した。PCR方が確立がされて、DNA配列クローニングや配列の決定、遺伝子変異誘導といった実験が可能になり、分子生物学は分子遺伝学、遺伝子工学という方向に発展してきた。
 PCR法は1983年に米国のキャリー・マリス(Kary Mullis)によって発明された。私が医学医療分野の記者になった1981年に、東京で日本医学会総会が開かれたが、その時にはまだPCRは発明されておらず、分子生物学は黎明期であった。その2年後の1983年にPCR法が発明されたことにより、1985年の医学会総会の総合展示会場の目玉はPCR機器であった。PCRを発明したキャリー・マリスは、10年後の1993年にPCR原理の発明の業績で、ノーベル化学賞を受賞した。同じ年に日本国際賞も受賞している。

 新型コロナウイルスに対する日本のPCR検査が少ないのは何故■
 新型コロナウイルスへの日本政府の対応について、海外からはの批判が相次いでいる。日本はPCR検査数が少な過ぎるのではないか?日本での新型コロナウイルス感染が、米国や欧州に比べて少ないのは、PCR検査をしていないからで実際はもっと多くの隠れた感染者がいるのではないか、との懸念である。事実、味覚症状の異常がみられたり、発熱したりしても、症状が軽い場合には保健所に連絡してもPCR検査を行って貰えないケースがあったようだ。PCR検査は、保健所や医療機関のどこでもできる訳ではない。検査機器を備えた専門の機関でのみで検査が可能である。検査機器は、現在ではコンパクトなものに進歩しているが、検査には数時間を要する。
 C型肝炎ウイルのキャリアであった私の場合も、一般的な血液検査は院内で1時間程度で結果がでたが、PCRだけはSRLという検査機関に依頼するので、結果の確認はで1週間を要していた。今後は症状の軽いひとでも感染が疑われたら迅速にPCR検査で感染の有無を明らかにして迅速に治療に対処することが必要なのは当然であろう。感染を疑ったが症状がかるいために自宅待機しているうちに急速に悪化して、死亡して後から感染が確認された例が幾つも報道されていた。
 

欧米で「川崎病」に似た症例の報告あり

 連休明けの本日(5月7日)は朝刊が休みであった。緊急事態宣言の最終日(5月6日)を経過したが,

5月31日まで延長となった。幸いなことに、新型コロナウイルス感染者の新たな感染者の増加数は下回ったきた。朝刊がないので昨日までの全貌は分らない。午後3時過ぎに配達された夕刊も何時もの8ページ構成と情報が少ない。この中で興味深い記事を見つけて読んだ。

 川崎病」に似た症例の報告が欧米で相次いでいるとのことだ。記憶と記録のために、同記事を紹介しておく。

 「患者の多くは新型コロナの感染歴があり、大人でも似た症状の人がいる。米国のニューヨーク市の保健局は、5月4日に、2歳から15歳の15人で「多臓器炎症疾患」が確認されたと発表した。川崎病ににた症状で、高熱や発疹、吐き気、下痢などがみられたという。そのうちの10人がPCR検査で新型コロナの感染歴が分かった。英国やフランス、イタリア、スペイン等の欧州でも報告れている。世界保健機関(WHO)の感染症の専門家マリア・ファンケルクホーフェ氏は、「感染した子どもの多くは症状が軽く、重症化する例は少ない。多臓器炎症を起こす例はまれだ」と指摘している。「(朝日シンブン月7日 夕刊)」

 川崎富作博士により初めて報告された川崎病は、いまもって原因が分かっていない。小児に特有な疾患で後遺症として心臓の冠動脈に異常がみられる。上記の記事を読むと、「多臓器炎症疾患」という面から川崎病に似ているとの指摘である。印象としては症状が似ているだけで、別の疾患なんだろうなと素人ながら思う。 

 

「黙移」(相馬愛蔵・黒光著者集3」を読む

 新宿中村屋相馬黒光さんがロシア語を話す人であったので、その関係で盲目のロシアの詩人エロシェンコの世話をしたのだということを先日知った。いまから30数年前にエロシェンコに興味を抱いて幾つかの本を買い求めたことがあった。「相馬愛蔵・黒光著者集(5巻本)」を買った覚えがあった。早速、階下の書棚から探してきて読んでみた。今回は、黒光さんの著作である「黙移」(第3巻)を少し読んだ。これが実に面白い。黒光さん(本名は良さん)は、宮城県生まれで、長野県の安曇野相馬愛蔵と結婚して長野県に移る。大幅に端折ると相馬愛蔵・黒光の夫妻が、東京にでて、東京・文京区本郷の東京大学前にあったパン屋を買い取って始めた小さなパン屋さんが新宿中村屋の前進である。私も東京にきてから(1971年~)何回となく中村屋のカレーを食した。この中村屋を舞台として、画家の中村つね(後で変換予定)や鶴田五郎、インドからの亡命者のボース、盲目のロシア詩人のエロシェンコらを保護して、一時期、彼らは黒光さん夫妻の庇護のもとにあった。「黙移」は最初は、自由学園で著名な羽仁もと子さんが創刊した「婦人の友」に書いたものとのことだ。明治から大正そして昭和へと続く日本で、このような類まれな人がおられたことに驚嘆する。本日は「相馬愛蔵・黒光著者集」を紹介した。全巻の目次は以下のようだ。

  第1巻 穂高高原(黒光著)
  第2巻 一商人として 夫婦教育 ((愛蔵・黒光著)
  第巻 黙移(黒光著)
  第4巻 私の商売道(愛蔵著)
  第5巻 広瀬川の畔(黒光著)

「アルツバーシェフ名作集」と翻訳者の昇隆一と曙夢さんのこと

 「アルツバーシェフ名作集」を私の本棚より抜き出した。この本も40年くらい前に購入して読まずに来た。「サーニン」を読もうとして購入したのであろう。出版社は、「青蛾書房」という神田の出版社だ。ロシア文学者の昇隆一さんの翻訳である。昇隆一さんは昇曙夢というロシア文学者の長男である。昭和の時代のロシア文学の世界では親子でロシア文学あるいはロシア語の翻訳者になった方が散見される。中村白葉と中村融もそうである。

 さて、アルツバーシェフといえば、「サーニン」が代表作であるので、遅まきながら「サーニン」を読み始めた。何をいまさらサーニンということになろう。時代遅れだし、さーニンといえば、一時代の前の青春の文学なのであろう。今日は、サーニンではなくて昇曙夢さんに触れたい。曙夢(あけぼのゆめ)なんてきっとペンネームだろうと想像していたがその通りであった。ウキペディアで次のような説明を目にした。


 1978年7月17日~1958年11月22日。正教会の信徒で、ニコライ・カサ―トキンの門下生として知られる。奄美群島加計呂麻島実久村芝生まれで、本名は直隆だという。鹿児島正教会に通い洗礼を受けている。1896年に東京の正教神学校に入学している。1903年に同学校を卒業。在学中から、『ゴーゴリ』を執筆している。日ロ戦争の際には、ロシア語のできる神学校出身者として、収容所のロシア人捕虜を慰問したという。1912年には、陸軍幼年学校教授嘱託をしている。1915年には早稲田大学講師、1916年には陸軍士官学校教授をしている。晩年の1946年には、ニコライ・ロシア語学院の院長をしている。また、アメリ支配下となった故郷奄美群島の本土復帰運動に指導者として参加している。実に面白い経歴である。日本のロシア文学者の系譜に露西亜正教の方がおられることは知らなかった。私がお世話になった「本郷ロシア語クールス」を主催した伊集院俊隆さんは、陸軍幼年学校出身で後に東京外語大後大学ロシア科卒だから、もしかしたら昇曙夢との接点があったのかもしれない。
 私がこれから読もうとしている「アルツバーシェフ名作集」は昇隆一さんの翻訳である。あとがきに次のような記載があった。
 「本書に収録した六つの作品のうち最初の三篇『サーニン』『妻』『恐怖』は、私の亡父(曙夢)がかって訳したものである。・・・・・私は、父の訳文の中で、壁がこわれたような場所や、壁の色がはげたところを特に注意して修正したわけである。・・・」

 昇曙夢さんのことを調べていくと更に新宿中村屋相馬黒光さんの話も出てきた。相馬さんもロシア語の話せるひとで、その伝でロシア人のエロシェンコなどを保護していたらしい。面白い話がいろいろあるのだと知った。「相馬黒光全集」も書棚にある筈なので読んでみたい。今日は、私の本棚からテーマを見つけて私のブログとした。