本日は同伴者Yさんの定例の通院日であった。7月に車を手放してしまったので、電車、バスを乗り継いで、歩いて1時間余をかけて行かねばならない。至便さから言うと逆行であるがこういうことになった。ひたすら歩くのである。
Yさんが出かけたあとで、三つのメールを書いた。先日(12月15日)に訪問した恩師のSS先生への礼状。もう一つは同行した旧友SA氏への礼状。三つめは現在の住居の設計師であるNNさんへの報告である。この6月頃に太陽光発電と蓄電池設置について相談したので遅ればせながらの報告である。この三つのメールのために三時間余を要した。それでも、意を尽くした情報発信ができたと思う。
そのあと、本日の夕食としてキムチ鍋の下準備をした。庭の葱を二本採取した。そんなこんなで、本読みは夜になった。記憶と記録のために書いておく。
(1)「Ⅲ章 ゲーテ、トルストイ、マルクスが読んだシェイクスピア」(『シェイクスピアの人間学』小田島雄志)
■ゲーテーー舞台は彼の偉大な精神にとっては狭すぎた
「舞台なんか、彼の偉大な精神にとっては、あまりにも狭すぎたのさ。それどころか、この目に見える全世界すらも、彼には狭すぎるくらいだった」
ゲーテが書いているんだって。古典主義の演劇美学には「三一致の法則=時、所、筋、の一致」というものがります。しかし、シェークスピアはそんなものにはとらわれない。
■トルストイーーあまりにも不自然すぎる
トルストイは、19世紀の「リアリズム」の立場から、シェクスピアに対して異議を唱えているんだって。っこれって面白い。シェクスピアのほうが自由なのだった。
■マルクス―シラーよりシェクスピア
マルクスもエンゲルスもシェクスピアをよく読んでいたなんて知らなかった。
<シェクスピアは観客の前でやる芝居としてちゃんと人間の真実を知ってもらうには、ときには不自然でもいいし、いろんなものをぶつけあわせてもいい、と考えています。そこを評価しているのがゲーテでありマルクス、エンゲルスです。>
(2)『百年の孤独』(ガブリエル・ガルシア=マルケス、鼓直訳)
読みついできた。この本は、まったくシェークスピアよりももっと自由である物語だ。既に死んだ人物が再び出てきたりする。それも、死人も年をとって容貌が変わってくるのである。シュールレアリズムの範疇を超えている。146頁まで読んで来た。
最後に今日の気になる本を書いておく。
(1)『脳を鍛える! 人生は65歳からが面白い』(川島隆太、扶桑社、990円)
川島さんには、20年も前に雑誌「神経研究の進歩」の編集会議で」お世話になった。この本て何が書いてあるのだろう。