TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(119) 奥田邦雄さんと「Klatskin Lectureship(米国エール大)のこと」 ~1993年5月17日

(119)奥田邦雄さんと「Klatskin Lectureship(米国エール大)のこと」1993

 

 私自身が罹患していたC型ウイルス肝炎の治療において千葉大消化器内科出身の小俣政男教授(東大病院消化器内科)に、最初の主治医としてお世話になった。最終的には町田市肝臓友の会講演会で千葉大教授・加藤直也先生に遭遇した。2017年10月、加藤先生の講演で当時の最新治療薬である飲み薬「マヴィレット」についての情報を得た。マヴィレットは、NS5A阻害薬とNS3/4Aプロテアーゼ阻害薬の配合錠剤である。まさに遺伝子工学の賜物たる薬であろう。
 千葉大医学部消化器内科といえば、奥田邦雄教授とかつて面識があったことを思いだした。
■奥田邦雄先生からのハガキ■
1993年5月17日:
 
奥田先生が、1990年代の初頭に、何かの「医学賞」を受賞された折に、医学界新聞で二度ほど記事にしたことがあった。奥田教授は満州医科大学のご出身だった。当時、懇意にしていた山田辰一先生(池袋・山田循環器内科院長)の紹介で奥田教授との知己を得た。山田辰一さんも満州医科大学満州医専)の出身だった。この縁で頭のどこかで奥田邦雄さんのことが気になっていた。
 古い資料を整理していたら、奥田邦雄さん(千葉大医学部名誉教授、当時)からいただいだハガキがでてきた(1993年5月17日)。内容は私が書いた記事の掲載に対する、奥田さんからのお礼のハガキであった。
優れた肝臓病研究者を招聘する―Klatskin Lectureship(米国エール大)に奥田邦雄氏(千葉大名誉教授)■
 医学界新聞・第2043号(1993年5月17日付)に、標記の記事が載っていた。Gerald Klatskin(クラッキン)は、エール大学の肝臓部門の創始者で、Klatskin腫瘍(肝門部胆管癌)にその名を残す。クラッキン腫瘍(肝)基金を元に創設されたのが「Klatskin Lectureship」及び「Klatskin Library」である。Lectureshipは優れた肝臓病の研究者をエール大学に招聘し、同大のスタッフに対して教育講演を行うというものである。これに奥田教授が招かれたのを記事にしたものだ。クラッキン教授の元に奥田教授室から小俣政男さんが留学していたらしい。エール大学の肝臓病研究と千葉大学消化器内科は縁が深かったのだ。この機会に奥田さんのことを検索してみた。
 奥田さんは大正10(1910)年に石川県に生まれ、平成15(2003)年に亡くなっている。満州医大を卒業して、軍医として従軍後に帰国して、昭和23年6月に千葉医大の第一内科入局(三輪清三教授)。その後、山口県医大、米国留学(フルブライト留学)、ジョンズ・ホプキンス大学助教授を経て帰国。昭和38年に久留米大教授、昭和46年~62年まで千葉大教授を務めた。平成11年(1999)に、ボッカス(Bockus)メダルを受賞している。Bockusは有名な「消化器病学(Gastroenterology))の著者である。奥田さんは肝臓研究において世界的なで評価を得ていたのだ。昭和19年9月に満州医科大学を首席で卒業して、満州医大学長賞、満鉄総裁賞を受賞している。優秀な学生だったのだろう。
(2021.1.20)

(私の「医人」たちの肖像―〔119〕奥田邦雄さんと「Klatskin Lectureship(米国エール大)のこと」1993年5月17日)

石川文之進って何者だ

 「宇都宮病院事件」というものがあった。今から35年くらいまえだった思う(後で調べる)。概要は忘れたが、宇都宮の精神病院における患者への虐待事件ではなかったろうか? 宇都宮病院の院長が石川文之進さんだったと思う。この石川さんが二つの本を最近出した。以下のような広告がでていた。
 『精神医学と俳句』(幻冬舎ルネッサンス新社)
 昭和の大俳人、平畑静塔(富次郎)の実像と後ろ姿。静塔の医道と俳句は写真の陽画と陰画の関係にあった。40年間静塔に師事した著者が畏敬を持って静塔を語り明かすと出ていた。
 

 『アルコール症―病院精神医学の四十年』(メディカル・ジャーナル社)
 著者等が発見の遺伝性アセトアルデヒド分解酵素をするノンフラッシング型は、白人では100%で、青白くなる故昔話では青鬼しか出ず、欠如するフラッシング型は東洋50%ずつ故、青鬼、赤鬼となった。著者40年の自見験3千例。渾身の総括。

 以上の本に興味を抱いたので記録した。

(更新予定)

『風の又三郎』(宮沢賢治)と『風の又三郎』(高橋源一郎)を読んだ!

 宮沢賢治の『風の又三郎』は童話というよりも田舎の小学校のお話だ。舞台は私の育った群馬県多野郡入野村ともそんない変わっていないと思う。

<九月一日

 どっどど どどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいくゎりんもふきとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな小学校がありました。
 教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけで一年から六年までみんなありま
 した。>

 こう始まります。あるとき、村の小学校に、ひとりの転校生がはいってきます。お父さんが、モリブデン(鉱物)の発掘をするので一緒にやってきた高田三郎という子です。この子が風の又三郎です。又三郎はほんの数週間いただけで、また居なくなってしまうのです。お話そのものは、そんなに面白いというものではない。

 一方、高橋源一郎の『風の又三郎』の舞台は、新宿らしいホストクラブのホストたちのお話なのです。なんで、これが「風の又三郎」なのか訳がわからないのです。

<男は道路に立って、店の看板を読んだ。
 「愛の園」
 不吉ななにかが感じられた。だが、いつものことだった。男はあたりの様子を注意深くうかがってみた。
 店のドアの中からも、新宿全体からも、その不吉ななにかはかんじられた、口の中が苦かった。まずいコーヒーを飲んだ後のような気分だった。>

 冒頭はこのようにはじまる。複数のホストたちの他愛のない会話が展開される。

 <ヒロシは、あの男のことを考えると、胸の中が温かくなるような気がした。タナカも同じだった。

コンドウは・・・・まあ、だいたい同じだった。そして、あおの男、突然現れ、

いきなり店のNo.1ホストになった「謎の男」と、「まんこ」や「ちんこ」について徹底的に語り合ってみたいと思った。あの男なら、「まんこ」や「ちんこ」というものが、ほんとうはなになのか、自分よりしっているかもしれないと思った。>

 高橋さんの「風の又三郎」は、「まんこ」と「ちんこ」とはなんなのかを真剣に議論しているお話なのだ。といっても、何をいいたいのかは訳がわからないのだな。おそらく、この本は全部を読んでみると何かがわかるのかもしれない。高橋さんは、「ポストモダン」の作家なのだそうだが、「ポストモダン」って何なのだ。

 さて、今年になって、元旦と三日に缶ビール飲んだだけで、お酒を呑んでいない。飲んでいないので夕食後に本が読める。


 

強制不妊 3度目の「違憲」-「家族構成の自由侵害」請求は棄却

 

 ちちとなるゆめ奪われしゆうせいほごほうなにおか言わん

 

 旧優性保護法の下で不妊手術を強制されたのは違法だとして、札幌市に住む男性、小島さん(70歳)が国に1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が、1月15日に札幌地裁であった。広瀬孝裁判長は、「家族構成について意思決定の自由を侵害した」などとして、旧法律が憲法24条に反するとの初判断を示した。しかし、手術から20年の除斥期間の経過を理由に、原告の請求を棄却した。除斥期間の起算点を、小島さんが手術を受けた1960年頃とし、20年が経過しており損害賠償請求権が消滅したとした。一方、2019年4月に成立した被害者に一時金を支給する法律について「制定までに何の補償もなく、遅きに失したのではないか」と言及した。
 原告の小島さんは、昭和16年生まれとのことで私より6歳年長でしかない。他人こととは思えない。記憶と記録のために朝日新聞の記事(1月16日付)より概要をまとめた。
 ■旧優性保護法ってなに■(概要紹介)
「旧優生保護法」は、終戦後まもない昭和23年に施行された。当時は戦地からの大量の引き揚げ者や出産ブームによる人口の急増が大きな社会問題となっていた。戦後復興のためには、人口の増加を抑えるとともに優秀な人材が必要だとして、法律では人工妊娠中絶に加えて、本人の同意がなくても精神障害や知的障害などを理由に不妊手術を強制することが出来るとした。当時は親の障害や疾患がそのまま子どもに遺伝すると考えられていたことが背景にあり、法律には「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と明記された。さらに国は、こうした手術を推進するため自治体に通知を出し、手術を拒否した場合、身体的に拘束したり麻酔などを使ったりするほか、偽って手術することも認めていた。
 国の統計によると強制的な不妊手術は、最も多かった昭和30年ごろには、年間1200人あまりに行われていた。法律の施行からおよそ半世紀たった平成8年、国内外からの批判の高まりを受けてようやく法律が改正されましたが、この間、強制的な不妊手術は1万6500人に行われ、本人が同意したケースを含めると不妊手術を受けた人はあわせて2万5000人にのぼった。法律が改正されたあと、国連人権規約委員会などの国際機関が、政府に対し、被害を補償するための法的措置をとるよう繰り返し勧告した。しかし国は、不妊手術は法律に基づいて合法的に行われていたと主張し、一貫して謝罪や補償には応じてなかった。4年前には、日弁連=日本弁護士連合会が自らの意思で出産や子育てを決めるという、憲法で保障された権利を侵害していたとして、国に謝罪や補償などを速やかに実施するよう求める意見書を出してた。
 救済に向けて大きく動き出したきっかけとなったのが3年前、平成30年1月でした。優生保護法のもとで不妊手術を受けさせられた宮城県の60代の女性が子どもを生み育てる権利を奪われたとして、国に損害賠償を求める初めての裁判を起こしたのです。その後、裁判を起こす動きが広がり、原告側の弁護団によりますと、これまでに国に賠償を求める訴えは全国の9か所の地方裁判所に起こされています。こうした動きを受けて政治的な救済に向けた機運が高まります。超党派議員連盟が立ち上がったほか、自民・公明両党の作業チームも設けられ、救済に向けた議論が急速に進みました。さらに、この救済策に当事者の声を反映させようと「被害者の会」が設立され、当事者やその家族が団結して声をあげました。そして、おととし4月おわびや、一時金として一律320万円を支払うことなどを盛り込んだ救済法が成立しました。厚生労働省によると、これまでに少なくとも1018件の申請があり、先月末の時点で833件の支給が認められたということです。救済法では国が同じ事態を繰り返さないよう旧優生保護法を制定したいきさつなどを調査することも定められていて、去年6月から衆参両院の厚生労働委員会が調査を開始し、3年程度かけて報告書をまとめることになりました。
一方、一連の裁判ではおととし5月に初めてとなる判決が仙台地方裁判所で言い渡されました。決では強制的な不妊手術を認めていた旧優生保護法そのものが憲法に違反していたと判断されたものの、国への賠償請求は退けられた。その後、東京と大阪でも判決が言い渡されたが、いずれも国の賠償責任は認められなかった。

新型コロナ死者ー世界200万人

  阪神・淡路大震災から26年が経過した。1995年1月17日、午前5時46分に、兵庫県南部を震源とする大地震が発生した。あの日、私は川崎市麻生区・王禅寺の自宅で寝ていた。朝方に眩暈を観じたのを覚えている。その日の夜に、たしか雑誌「脳神経外科」の編集会議があった。そのとき私は48歳だった。その、16年後の2011年3月11日には、東日本大震災が起きた。そして、さらに10年後の2021年1月17日の本日、現在、私たちは新型コロナウイルスの感染拡大第3波の最中にある。1月8日から、首都圏4都県に緊急事態宣言が再び発令された。

 新型コロナウイルス死者 世界200万人―1日で1.3万人■
 新型コロナウイルスによる世界の死者が日本時間の16日、200万人を越えた。中国で初の死者がでた昨年1月以降、9ヵ月弱で累計100万人に達したが、それから約3カ月で100万人が上積みされたことになる。米国のジョンズ・ホプキンス大学の集計によると、世界の死者数は16午後5時時点で、200万9595人。感染者は9300万人を超えている。

 ■日本国内の感染者数―32万4936人(+7014人)、死者4476人(+56人)■
 
新型コロナウイルスの国内感染者は1月16日午後10時半現在で、新たに7014人が確認され、2日間、連続で7000人を超えた。死者は56人増えた。東京は、1809人、神奈川県は、830人、埼玉582人、千葉503人、茨城106人、栃木96人、群馬90人と増えている。

 

 

 

 

『セロ弾きのゴーシュ』(宮沢賢治)を読んで、高橋源一郎の「セロ弾きのゴーシュ^_^」も読んだのがだが・・・

 『セロ弾きのゴーシュ』ってこんなに短いお話なんだ。こんない短くてこんなに有名なお話なんだ。童話ということだ。
 「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾くかかりでした。けれでどもあんまり上手ではないといふ評判でした。上手でないどころでなく実は仲間の楽手の中でいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいぢめられるのでした。」
 このように、お話は始まります。出てくるのは、ゴーシュの他は動物だけです。三毛猫、灰色の鳥(かくこう)、狸の子、野ねずみ。これだけです。これらの動物たちが6日間にわたってゴーシュの家に来るのです。ゴーシュの弾くセロの音色が動物たちの病気を治していたのでした。そして、6日目の晩に、ゴーシュは、金星楽団の人たちと町の公会堂のホールでセロを弾くことになった。そして、ゴーシュのセロはいつの間にか人の心を打つようになっていたのでした。
 「セロ弾きのゴーシュ」のどこが面白いのか、何を言いたいのかはわからない。

 先日から、高橋源一郎の「ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ」を読んでいる。この中に、「セロ弾きのゴーシュ」を読んだ。実のと何を言いたいのか訳がわからないのだ。

 

 

本日の「朝日歌壇」を読む

 「朝日歌壇」も二週目だ。そういえば、昨日はじめて「朝日歌壇」に投稿した。落選のときは連絡は来ないのだろうな。
 さて、今日の掲載の短歌から私の好きな一首を選らんでみよう。

 「枯葉落ち桜並木の向こう側マスクの列がゆれて通りぬ」(兵庫県 中川志恵乃)↜佐佐木幸綱選 コメント:この風景は散歩していてよく見る最近の風景だ。この一首は、目で詠んだ歌と言えるだろう。参考になる。

 「追伸のごとく残りし紅葉散る新型コロナ終息はいつ(福岡市 宮原ますみ)」↜高野公彦選 コメント:この歌も目で詠んでいる。「追伸のごとく・・・」という比喩は適切なのだろうか? つけたしというう意味か?

 「わたくしを憶えていてもいなくても母はいつでもいつまでも母(ひたちなか市 菅野公子)」↜永田和宏選 コメント:高齢のお母さんんは認知になってしまったのだろう。それでも母は母だ。高野さんも同じ歌を選んでいるので、共選作品だ。

 「一日分値引かれた魚と一日分老いたわたしがスーパーで会う(和泉市 星田美紀)」↜馬場あきこ子選 コメント:こういうことって日常ですね。でもこうは詠めない。

以上とは別に、
 「誰か住み夕餉の支度する頃か君と暮した坂の上の家(福岡市 杉野順子)」という歌を、佐佐木幸綱さんと永田和宏さんのお二人が選んでいる。作者は女性である。これは、別れた君と暮していた丘の上の家だろうか? そうだろう。もっと別の新居に引っ越しているのなら、歌には詠まないだろう。

「一日分値引かれた魚と一日分老いたわたしがスーパーで会う(和泉市 星田美紀)」

「わたくしを憶えていてもいなくても母はいつでもいつまでも母(ひたちなか市 菅野公子)」

 今日の一押しは、上の二つにする。これらは、写生歌ではなく心象の歌であろう。一日くらい賞味期限が迫っても、少しでも安い魚を買うのが庶民の日常である。菅野さんの歌は実は辛い歌なのだ。私の義母も最晩年は、「家内が私は誰?」と言っても、実の娘を認識せずに、笑ってごまかしていた。耕治人さんの小説『そうかもしれない』を思い起こす。「この人はあなたの夫ですよ」と言われて、呆けてきた妻は「そうかもしれない」と応えるのである。