TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「ただごと歌」は感動を呼ばない―写生の心がまえ

NHK学園講座短歌入門」(平成7年)の第5章に、石田比呂志さんが、<「ただごと歌」は感動を呼ばない―写生の心がまえ>ということを書いていた。30年近く経って今頃読んだ。その感想を書いてみたい。

 (1)落葉ぬれ踏みしだかれて道あらた言葉すくなに歩く里山
 (2)ゆくりなくいざ鎌倉へ爺じ婆ばらコロナウイルス避けて遠らん
 (3)虫食いの白菜ついに巻きにけり爺じのはたけは冬景色かな
 (4)仰ぎみし富士の高嶺の確かさよ師走の里に老いを哀しむ
 (5)見返りの峠に立ちて眺むるは十五の春の寒けしこころ
 (6)夕こくに落葉踏みつつ歩くみち富士山見えしこころ華やぐ

 <「ただごと歌」は、それが事物の提示ではなく、事柄の報告、意味内容の説明に終わっているからです。そういう歌を正岡子規は、「月並歌(つきなみうた)」と称し、若山牧水は、「そうですか歌」といって、はなはだこれを嫌っております。>
 このように、石田さんは書いている。上に掲示したのは、この11月頃から散歩がてら写真をとって写真に添えた私の「歌らしきもの」である。言葉を、57577にあてはめただけかもしれない。どれもこれも「月並歌」だが、(2)と(4)は少しは良いかもしれない。

 <歌は、もと日常生活的な些細な事物に出会って、あるいは自然の風景に出会って、いわく言い難い、作者でですら説明することのできない深奥のゆらぎを、その事物を通して瞬間的に把握し、具象化し、提示するものであって、作者の理念を述べたり、感情に溺れたり、解釈を押しつけたり、主張を開陳するものでは断じてないのです。>
 このように、「ただごと歌」になんらないためにの項で、石田さんが書いている。この観点からみると、やはり私のは「ただごと歌」である。

「底少し焦げしヤカンがぽつねんとコンロの上に坐りいにけり」(石田比呂志
 <こう直写すれば、作者の気持ちが具体化されます。つまり、そこの焦げたヤカンがそのときの作者のもののあわれや心ゆらぎを代弁してくれるのです。>
 石田さんは、「写生こそ上達の早道」と自作をだして説明しています。また、次のようにも言っている。
 <歌は、ヘッド(頭)で作るのでなく、ハート(心)で作るものだといえましょうが、しかしハートで作ると初心のあいだは、どうしても気分に流れて、思い入れが過剰になりますから、やはりハートの前に、アイ(目)で作ることが大切でありましょう。>
 「ハートの前に、アイ(目)で作る」ということはどういうことだろう。ものをよく見るということだろう。これからは、散歩の際によく見ながら歩いてみよう。上に載せた、「虫食いの白菜ついに巻きにけり・・・」は、目で見た視点は面白いのではないか?しかし、後段の「爺じの畑は冬景色かな」はつまらない感じがする。やはり作歌は難しい。