TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

短歌はありのままに直接―「短歌のすすめ」を読み継いで思うこと

 昨日から、佐藤佐太郎さんの「短歌指導」を読みはじめた。まだ、最初の「短歌のすすめ」のところを読んでいる。佐藤さんの本の記述は、「であります調」で記述してある。いかにも古めかしい目の前で話しているように書かれている。実際に、どこかでお話したものを原稿におこしたのかもしれない。
 「感情は実際の事柄に応じておこるのですから、その実際をありのままに、自分の見たままを率直にいえば、それはやがて感情を直接に表現することになるのであります。もともと感動というものは、見たり聞いたりする、その事が感動だといってよいので、ただ漫然と見たり聞いたりするのではなく、自分の眼を注ぎ、耳を傾けて聞くということに既に感情があるのでありますから、表現の方法としては、とにかく実際に即してありのままに直接に現わすということ以外にないといってよいのであります。」

 みたものをありのままに直接に現わすのがよいのだという。佐藤さんの説明はわかったが、実際に表現するのは難しい。短歌は抒情詩であるから、そこには感動(感情)が含まれていなければ歌にはならないということのようだ。
 「虫食いの 白菜ついに巻きだした 爺じの畑は 冬模様」
 (本日は朝から、家庭菜園の世話をした。虫に食われて育ちがわるかった白菜も固く巻いて来て結実の時期を迎えてた。すっかり冬野菜らしくなってきた。)
 フェイス・ブックに写真を載せて、そのキャプションとして上記の文章を「57577 で記述してみた。これは事実の説明なのだが、感動は現されていないので「歌」にはなっていないようだ。

 佐藤さんは、次のようなことも言っておられる。
 「これから短歌をはじめようかという人や、始めて間もない人は、よく自分のような者にでも歌をを作る素質があるのだろうかという疑問をもつ場合が多くあります。素質があるかないか、それはやってみなければ分かるものではありません。・・・・歌が好きになって、自分も作ってみたいような気がすれば、それはその人に短歌的な傾向があるので、素質があるということであります。」

 つまり、大枚を叩いて佐藤佐太郎さんの本を買ってよんでいる私には「短歌的な傾向があるので素質がある」ということにしてもよさそうだ。ということで、「短歌って、面白いねと、思うから、12月17日、短歌記念日」にしておこう。