TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『私の小説論』(車谷長吉)を読んだ!

 車谷長吉さんの『飆風』(講談社)を稲城図書館で借りてきて全部を読んでしまった。怖ろしい本である。車谷さんは変人奇人であることがよく分かった。2年位前に嚥下障害で亡くなってしまったが、それも因果応報のような気がする。きっと怖い人であったのだろう。とはいえ小説家になることを全うして死んだのだから本望であったのだろう。
 さて、「私の小説論」は件の単行本の最後に付けたしで載っていた。平成15年に上智大学ソフィア祭での講演録を雑誌「文學界」(平成16年2月号)に掲載したものを、また本に収めたものである。この講演録は凄いことがかいてあった。冒頭にはこう書いてあった。

<私は風呂に入るのが嫌いで、一カ月に1回ぐらいしか入りません。独身時代には年に三回しか入らなかった。> 

 車谷さんの講演の趣意は、人間は死ぬために生まれてきた、ということだ。いずれ死ぬことを知っているのは人間だけである。

<心なき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕ぐれ>
 これは、西行の歌なんだという。
<「あはれ」とは、「物のあはれ」とは、人は生きいながらにしてみずからがいずれ死ぬことを知っている、その悲しみという気分です。>

 <とし暮れてわがよふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな>
 これは、紫式部の歌なんだという。
 <この、「すさまじき」は「淋しい」という心の内を、さらに一段強調した表現です。>

 車谷さんは、こういうことも書いている。
<近代になって以後、多くの小説が世に出ましたが、一番たくさん読まれたのは漱石ではないでしょうか。・・・・・漱石は人間にとって一番の根本問題である「淋しい」というのは、どういうことかということを中心命題にして、くり返し小説を書きました。>

<死ぬことは一番恐ろしいことですが、併し死を決して、恐ろしくないと、喜んで死ぬ主人公にした小説があります。それは深沢七郎の『楢山節考』です。>

 そうなのか、『楢山節考』を読み返してみたい。

<小説を書くことも、人の陰口、悪口を容赦なく言うことから始まります。>
<小説は、小説を書くことによって、まず一番に作者みずからが傷つかなければなりません。血を流さなければなりません。>

<人間としてこの世に生まれれて来ることは罪であり、従って罰としてしなければならないことがたくさんあります。小説を書くことも、結婚することもその罰の一つです。>

 車谷さんは凄いことをいっているよ。目から鱗でした。私には「小説」は書けそうもない。結婚が罰の一つであるとしたら、十分に罰を受けている。