TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 国立大学の月謝が1,000円(昭和41年)だったので大学の文学部に入れた―文学は実学か?

 ブログを書いて生きている。私の書いていることは「独り言」であると知った。先日から読んでいる『こんなとき私はどうしてきたか(中井久夫)』のなかで、外国に単身赴任したりして日本語を話せる人のいないところでは、「独り言」がその人の精神を保つために必要だと知った。「お前。今日も頑張ったなあ、ま一杯やるか」と言いながら一人飲みをしたり、「ああ会あいたいよ」って言って一人ベッドでのたうち回ったり、そうすることで精神の平衡を人は保つのだという。あのロシアの文豪と言われるドストエフキーさんだって、ひとり旅をしているときに20歳もと下の妻アンナに向けて「ああ、お前に会いたいよ早く帰国してお前の最高の○○を○○たい」などと手紙を書いたりしている。つまり、ひとは「言葉(独り言)」を発することで他者と交わりたいのだ。

 さて、私のこのブログは私の「独り言」で宣伝もしていない。当初、無料の「ヤフーブログ」で始めたがそれが終了してしまったので紹介(推奨)してくれた「ハテナブログ」に移った。「プロフィール」の記載方法がわからないので少ししか書いていない。それでも繋がりができ数人の方が読者なってくれて「いいねマーク」をつけてコメントを下さる。最近、豆蔵屋Mamezouya)さんという方がコメントを付けてくれた。

 閲覧すると、2月2日(2023年)にMamezouyaさんが、「果たせなかったもう一つの人生の可能性について」という興味深いブログを書いていた。この方(Mamezouyaさん)は私と同年代(少し若いかな?)で本をよく読むひとで、亡くなった哲学者の池田晶子さんのファンである点で惹かれるものがある。勝手にMamezouyaさんのブログから引用の引用をする(孫引きだ)。

 <今、国公立大学の初年度納入金は80万円を超える。それだけの貯金を持っている高校生はまずいない。だから、「金主」たる親に出してもらうしかない。多くの親はそれを「教育投資」ととらえるだろう。投資であるなら短期かつ確実に回収したい。いきおい「実学」志向になる。「投資家」は哲学や文学や数学や歴史学のような何の役に立つのか分からない学問領域は見向きもしない。「教育投資」という言葉が流通するようになってから日本の学知の厚みが失われたのはそのような理由による。だが、学費がゼロなら受験生は「金主」に気がねすることなく、好きな学問領域を選択することができる。無償化すれば、家が貧しいが大学に行きたいという「貧しい秀才」と自分の進路は自分で選びたいという「不羈の青年」が集まってくる(はずである)。(中略)入学金は四千円、半期授業料六千円だった。一万円札一枚で大学生になれた。一万円の貯金なら高校生にもあった。だから、自分で好きな専門を選べた。親が何と言おうと、「じゃあ、自分で授業料出すからいいよ」でことが済んだ。  内田樹の研究室 1月20日

 私は国立大学の月謝が安かったので大学生になれた。いまなら駄目だ。
 Mamezouya さんは、こう書いている。

 <内田樹先生は引用自由とおっしゃっているので、少し長めに引いた。
 何故引いたか。うらやましかったからである。
 自分は自分の進路を結果的に自身で決めたし、就職もそうだった、とは思っている 
 大学が「好きなことを追求する場所」でありうる、とは思っていたが、ありうる、とは「好きなことが実学であれば」という条件があった。

 だが人に言われるより、とにかく餓死せず生き延びる、ということが自身のなかでやはり一番だ、と自分のなかで思っていたし、
好きなことは(ま、幻想文学と漫画ですな)は当時は学術的とはいえなかったので、研究対象にしよう、という案は浮かばなかった(今は、ありうるかな)。
試しにマンガや小説を描いて」、いたが、いわゆるプロ1年生突破れべりゅ、には自信としても到達いていない、という感触を得たし、そこで「なにくそ!」という気分が出てこない時点で、自分の中でこれはあかん、と思っていた。>

 Mamezouyaさんってどういう人だろう。私も共感するのでついつい長い引用をしてしまった。
 ところで、最近、文学は全ての学問の元なのかもしれないと思っている。文学も哲学も力仕事なのだ。詩人の荒川洋治さんの『文学は実学である』(みすず書房)を図書館にリクエストした。読んでみたい。