TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『知の技法入門』(小林康夫・大澤真幸)とジョン・アガード作『わたしの名前は「本」』(金原瑞人訳)のこと

 一昨日、リクエストしていた本『今すぐ使えるかんたん Windows11 』を川崎市麻生図書館から借りて来た。そのときに、返却棚で目についた二冊の本『知の技法入門』(小林康夫大澤真幸)とジョン・アガード作(金原瑞人訳)もついでに借りて来た。
 この本をかりる決断は、一瞬、五秒であった。一冊目は、大澤真幸という著者名、二さ冊目はタイトル「本」であった。
 読み始めた。『知の技法入門』は、頭のいい二人とも東京大学をでて大学教授の対談本だ。頭のいい人の言っていることとか、書くことは「目から鱗」の感じがするので読んでいて羨むが面白い。
 <小林 ・・・「情報」がもし重さをもたない言葉だとすると、本はそれっと違って重さがある、と実感として思いますね。だから本を書く人は、ある意味で、その重さと格闘しながら、ほとんど労働をしているという感じです。本を書くためには、ものすごい長い時間との忍耐とエネルギーを投下しなければならない。言葉の労働ですね。マルグリット・デュラスに、音楽をセメントの山に喩えた発言があったと思いますが、セメントの山みたいなものが本としてある。書く人間は、言葉の重さというセメントに労働するわけです。一方で、重さのない言葉とは誰でも自由自在にアクセスできて、引用もパッチワーク的に、コピペを使ってスムーズにできて、ほとんど誰の言葉なのかわからない、所有権も労働の痕跡もなういようなものとして広まっていくわけですね。ところが、本は、体に体重があるように一人の身体に結びつけられるような重さを、物質的に表現していますよね。重さがあるということは、すぐには消化できないといいうこと。重さを手にした人間は、重さと付きあうことを要求される。それを産みだした労働に見合ったものを自分もどこかで担わなければ、読んだことにならないわけです。・・・>

 小林さんが、実にいいことを言っているので長い引用をした。詩人の荒川洋治さんが、「文学は実学である」という趣旨の本を書いていると前に読んだ。探して読んでみたいが、まだ果たしていない。わかったことは、文学者も実学の労働をしているのだということだ。

この世界の「外」への希望を示すのが、人文書

<大澤 ・・・・・・僕は、大変かもしれないけれどやっぱり『資本論』という本は、できるだけ若いうちに読んだほうがいいと思うんですよ。どうしても終わりまで読めない人は、少なくとも、一巻だけは読んだほうがよい(邦訳の「第一分冊」という意味ではないので注意)。資本論』という本は、こうやったら共産主義になるとかそういうことは一つも書いていません。『資本論』という本の何がすごいかというと、一九世紀後半に書かれた本ですが、社会の仕組みの全体像、社会の全体がこうなっているという本なんですよ。いや、『資本論』は、世界そのものを読み解く作業だと言ってもよいほどの包括性を持っている。これを読むと、僕らは、近代社会の全体のや近代的な世界の全体を相対化してしまうような、精神の自由を実感できるんですね。つまり、読むこと自体が、人の精神を解放し、自由にする。すると、そこに書かれていること以上の、あるプラスアルファの感覚が生ずる。・・・・・・小林さんが先ほど話されていた、本の「重さ」というのは、このプラスアルファの感覚と関係していると思んですよ。・・・・・・(僕が,『資本論』の前に、あるいは『資本論』と共に読むことを薦めたい本は二つあって、一つは熊野純彦先生の『マルクス資本論の思考』(せりか書房)であり、もう一つは、僕の先生の真木悠介現代社会の存立構造』筑摩書房)です。>

 印象に残った部分を長い引用をした。『資本論』ってそういう本なのか。文庫本二冊の『資本論』(岩波文庫?)を購入してもっていたはずだ。探してみよう。いまからでも読めるだろうか。読んでみたい。共産主義ソ連と共に瓦解ぢたのではなかったか。マルクシズムって何なのだ。それも知らない。私は知識人ではないのだが、面白い本にであった。

 『資本論』は、世界そのものを読み解く作業だと言ってもよいほどの包括性を持っている。これを読むと、僕らは、近代社会の全体のや近代的な世界の全体を相対化してしまうような、精神の自由を実感できるんですね。

 これが、本当なら読んでみたい。