TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『文学は実学である』(荒川洋治、みすず書房)を借りてきて読んだ

 『文学は実学である』(荒川洋治)は気になっていた本だ。稲城図書館になくて川崎図書館にあったのでリクエストして借りてきた。どんな本だろうと楽しみにしていた。エッセイ集である。1992年から2020年まで、あちこちの新聞や雑誌に書き散らしてきたエッセイの集大成なのだ。タイトルが、「文学は実学である」は、初出一覧によれば、2002年9月1日の産経新聞に載ってたものだ。とても短い、。800~1200文字くらいだろう。全文引用することにした。

<この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつひとになりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。
 (この辺のことは読んでいてわかる。そう思う。)
 だがこの目に見える現実だけが現実であると思うひとがふえ、漱石や鷗外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身がせまい。たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、先生たちも「文学は世間では約に立たないが」ろいう弱気の前置きで話す。文学像がすっかり壊れているというのに(相田みつをの詩しか読まれていないのに)、文学が読まれているとの甘い観測のもと、作家も批評家も学者も高所からの言説でけむに巻くだけで、文学の魅力をおしえない。語ろうとしない。
 (このパラグラフは理解できない。相田みつをの詩(だろうか)「○○人間なんだから○○」が共感を生むのだろうか?)
 文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。社会生活に実際に役立つものである。そう考えるべきだ。特に社会問題が、もっぱら人間の精神に起因する現在、文学はもっと「実」の面を強調しなければならない。
(このパラグラフが、このエッセイの中心個所だが・・・)
 漱石、鴎外ではありふれているというなら、田山花袋田舎教師」、徳田秋声「和解」、室尾犀星「蜜のあはれ」、阿部知二「冬の宿」、梅崎春生桜島」、伊藤整「氾濫」、高見順「いやな感じ」、三島由紀夫「橋づくし」、色川武大「百」、詩なら石原吉郎・・・・と、なんでもいいが、こうした作品を知ることと、知らないことでは人生がまるっきりちがったものになる。 (そうかそういうことか。「文学は実学である」の意味が分かった。)
 それくらいの激しい力が文学にはある。読む人の現実を、生活を一変させるのだ。文学は現実的なもの、強力な「実」の世界なのだ。文学を「虚」学とみるところに、大きな誤りがある。科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われていたものが,実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。

 (文部科学省が、中高の国語の教科書から「文学(小説や詩)」の除いて、マニュアル的な説明の文章のみを載せるとの方針が出されたのは4年くらい前だった。あれはどうなったのだろう。まさに、「文学はなんの役にたたない」と文科省が言ったのとおなじことだった。ここで、紹介した荒川さんの文章は大きな提言である。人は「文学」の文学によって強く生きなおすのである。「医学」を人間学と捉えれば、医学の本質は文学である。

 <コメント>『文学は実学である』(荒川洋治みすず書房)と一緒に、雑誌「中央公論」(2022年4月号)を借りて来た。「読書の役割、教養のゆくえ」という特集の内容だ。この号で「追悼 石原慎太郎」を掲載していた。五木寛之さんが「同年同月同日(1932年9月30日)に生まれて 石原さんと僕、交わらなかった二筋の道」という寄稿をしていた。これから読んでみる。
 ともあれ、文学は実学の思いが最近は強い。短歌、俳句も実学である。歌人は実に強く生きているではないか。