TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 『西郷札(さいごうさつ)』 (松本清張、カッパブックス)を読んだ 〜作家の片鱗が見えた

  『西郷札(さいごうさつ)』 松本清張 を読んだ。人はどのようにして作家になるのか?『西郷札』を読んだら松本清張の片鱗が見えた。人が生きることの哀しみが既にでている。

 先日、最初に読んだ「半生の記」に『西郷札」を書いた経緯を本人が書いていたのを読んだ。見直してみたいが「半生の記」を図書館 に返却してしまった。いわば、この作品が、清張さんが41歳にして作家になり、朝日新聞の西日本支社から東京に転勤となり本社務めとなるキッカケとなったのであるからターニングポイント的作品であろう。

 上の経緯で、残念に思っていたら、この光文社版「松本清張短篇全集1」には、作者の松本さんが「あとがき」を書いていた。ここに、なんと『西郷札』執筆の経緯が書いてあった。昭和38年にこの光文社の本(短編集)は出ている。清張さんが世に出て12年後のことである。まだ若い書きっぷりである。面白いので長く引用したい。

<「西郷札」は昭和26年に書いた。いわば私の処女作品である。
 私は十七八のころ、九州小倉で文学好きな友だちと創作のまねごとをやり、たがいに原稿のまわしよみなどしていたが、小説を志しては食っていけないと思い、そのほうはぷっつりとやめた。昭和26年というと私が四十二にころで、二十三四年間は何も書かななかったわけだ。この小説は、当時『週刊朝日』が募集していた”百万人の小説”に応募するためのもので、締め切りにだいぶ遅れて出したことを憶えている。作品のヒントになったのは、たまたま百科事典の中で、”西郷札”の項を読んだときである。これは今ではほうぼうで書いていることなので、くわしくは繰り返さない。
 ただ、賊軍の発行した軍票がの西郷札が投機の対象になったのは、その前に岩崎弥太郎による藩札(はんさつ)買い占めの例があるからで、納得性があると思った。まさか当選するとは思わなかったが、予選の通過者の中に自分の名の活字を見つけたときはうれしかった。・・・・・

 この作品を読んだ大仏次郎火野葦平長谷川伸などから手紙を貰ったこともうれしい一つだった。そのころ、『三田文学』を編集していた木々高太郎(きぎたかたろう)氏が、この小説を読んで『三田文学』に書くようにすすめてくださった。そんなわけで、私には幸福な思い出の作品である。

 ・・・・・・・・・・・
 前記のように、木々高太郎氏から何かかけと言われて送ったのが「火の記憶」である。しかし、氏のことだから、推理小説を書いたほうがどこかの雑誌に紹介されるとおもい、このような作品になった。ところが、すぐに『三田文学』に載ったのでとまどった。そこで同誌の性格に合う小説をと思い、次に提出したのが『或る「小倉日記」伝』である。>

 この辺りの件を読むと実に面白い。松本さんはやはり書く素養があったのだ。

<この作品(小倉日記伝)」とはべつに『オール讀物』の編集部に「口秋々吟」を送った。これは自分でも、せいいっぱい書いたと思い、編集部の反響を待っていた。あくる年の正月に私が宇佐神宮に行って帰宅してみると、当時の編集長上林吾郎氏から、新人杯を受けるかどうかの問い合わせ電報が来ていた。・・・・・
 すると、まもなく『三田文学』に載った「或る小倉日記伝」が昭二十七年下半期の直木賞候補になっているという通知を受けた。その当時、私は門司鉄道局より九州の観光ポスターの依頼を受け、スケッチに鹿児島に行かなければならなかった。・・・・その旅から帰ってみると、「口秋々吟」は新人杯を逸し、二席になったという通知がきていた。一席は南条範夫君であった。
 つづいて直木賞の詮衡委員会では「或る小倉日記伝」は芥川賞詮衡委員会に回され、そこで受賞と決まった。五味康佑君の「喪神」と抱き合わせだった。>

 まるで、この辺りの記述は、まるで小説の話のようだ。人生が展開するひとってことってあるのだ。

<・・・・・「西郷札」は発表と同時にその年の直木賞候補になったので、私は馬車馬のようにこの道に進む決心になったのだ。・・・・>

 実に、素直で初々しい「あとがき」である。こいうふうにして、作家になって大成したひとって知らない。ドストエフスキーとも、村上春樹とも違う。何故か、すごく共感することがある。この「あとがき」はこう結ばれている。

 <小説修行なをしたことのない私は、どのような小説を志すべきか見当がつかなかった。ただ、他人の行く道は踏みたくなかった。
 昭和三十八年十一月 松本清張

 実に面白い。清張さんのほかの「短篇」を読んでみる。

 続く