本日は、昨年10月から始めた「東京肝臓友の会」でのヴォランティアの仕事日であった。6時10分に起きて、8時に出かけて行って来た。身体に緊張感がある。これも「修行」なのであり、昨日からの「禁酒」も継続している。
帰宅して、 『第一章 存在するとはどういうことかーー「現成公案(げんじょうこうあん)」を読むⅠ』(南 直哉)を読み継いだ。
■『正法眼蔵』という題名■
南さんが、こう書いている。
<本書では、「正法」の意味を限定する。「正法」とは縁起と因果の教えに基づくものの見方・考え方、およびこれを可能にし支える修行法のことである。この見方・考え方・行法(「眼」)による道元禅師の認識・見解の集成(「蔵」)が『正法眼蔵』なのだ。>
上の説明を読んでもよくわからない。要するに、道元さんの教えの集大成っていうことなんだろう、と理解する。「縁起と因果の教え」というのもなんのことかわからない。
■「現成公案(げんじょうこうあん)の意味■
<・・・「現成」とは「現にそう成っている」ことである。・・・・この「現」は、私たちが普段「現にそぷだろう」とか「現にそこにあるじゃないか」と使う場合と同じで、それ自体、私たちの立ち会い、つまり対象現象との出会いを、意味として含んでいる。「現」は、認識される対象と認識する主体の関係を示す。この関係を起点として、私たちの目の前の世界は、認識されたように生成されて来るというのだ。>
うえの説明文章を読んでも理解できない。わからないということが分かった。
■「問い」としての「公案」■
<・・・・「現成公案」は、現にそうなっている事象・事物が、我々の取り組むべき問題なのだと言っていることになる。すなわち、これは「存在するとはどういうことかという問いかけなのである。「問い」を言うのであり、「真理」を説いているのではない。>
上の説明を読んでも何をいっているのか分からない。
「我思う、ゆえに我あり」(デカルトの有名な言葉)を思い出した。こちらも、言葉を覚えているだけで、何を言っているのかは知らない。こんなことでは、『正法眼蔵」を読むのはむりかもしれない。
南さんは、上のような解釈には時代的な必然性があると述べている。
<最大の理由は、『現蔵』成立の時代が、「現実がそのまま真実だ」などと言えるよううな現状肯定的世相になく、むしろ現実の在り方を根底的に問い直すような変革と激動の時代だったからである。>
『現蔵』は鎌倉時代に成立している。南さんが、こう述べる。
「それは史上初めて、仏教が過酷な現実に苦しむ民衆の末端までに達したことにも現れるように、社会の根底に及ぶ変動期と言えよう。この状況が、まさに現代の我々の状況にも通じるのだ。そして、ブッダの時代も同じだったのである」
最後の説明のところは少し分かってきた。原題は、『現蔵」を読むべき時代なのだ。
<コメント>」
分からないことが分かったところで、今日はここまで。最後に、今日の気成る本を書いておく。
(1)『病気の9割歩くだけで治る!』(長尾和宏、ヤマケイ文庫、990円)
読みたいのだがリクエストしていない。広告が頻繁に出る。22万部売れているんだって?
(2)『ゴールデンカムイ』(中川裕、集英社新書、1,650円)
人気漫画のアイヌ語監修者による入門書。
続く