TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「子宮移植」ってなに?

  <子宮移植「認めてよい」36%>という見出しの記事を朝日新聞夕刊(2019年11月6日)で読んだ。凄い記事だ。移植医療はここまで来ているのだと知った。興味を惹かれたので記録と記憶として取り上げる。

  子宮がない女性に他人の子宮を移植して出産につなげる「子宮移植」について、1600人を対象にした意識調査で、肯定的な意見が上回っていたことが東大の研究調査で示された。子宮移植は、生まれつき子宮がない「ロキタンスキー症候群」などの女性が対象だという。子宮移植によって出産できるが、妊娠中に免疫抑制剤を使うなどの課題がある。ということは、子宮がないが卵巣があり排卵もでき受精した卵子の着床場所としての子宮のみが移植によって準備できるということなのだろう。移植医療はここまできたのかの感がある。2014年にスウェーデンで初めて出産に成功している。世界で10人以上が生まれた。国内では慶応大のチームが臨床研究を目指しており、日本医学会が倫理的な課題を審議している。生殖医療がここまで来たかの印象をもった、

 この調査を行った東大病院の平田哲也医師は子宮移植について、「わからないという人も多く、知識の共有によって結果は変る可能性もある。社会的な合意形成には知識の共有が重要だ」と話している。

 「貧乏人の子だくさん」「一年経って子無きは去れ」「こは鎹」「こは授かりもの」・・・。いろいろな格言がある。上記の記事を読むと、「子宮」とは読んで字のごとく、「子の都」文字通り「子の袋」のようにも思う。医療はどこまで行くのだろうか?先天的な障害で子宮のない人への福音となる医療であろう。しかし、「そこまでありか?」という印象も拭いきれない。

10月の大腸内視鏡検査結果

 2019年10月15日に受けた大腸内視鏡検査結果を聞くために昭和大学横浜北部病院の工藤進英さんの受診を受けてきた。10月の検査の折にポリープの切除はなかっったので心配はしていなかった。9月3日に事前採血をした折の検査結果表をいただいた。中性脂肪が230と高かった。上限が149だからかなりの高値だ。そのほかは、血小板が13.7とやはり低い。しかし、下限が14.0だからもう少しで基準値以内に入るようだ。とにもかくにも、9月の段階では肝臓の数値は基準値以内に収まっている。血糖値は検査項目に今回はなかった。次回は2年後の検査でよいことになった。11月の穏やかな良き日であった。

秋の茅野に遊ぶ

朝7時発で21時35分着という日帰りバス旅に参加してきた。新百合ヶ丘から稲城市坂浜を抜けて調布から中央高速に乗り10時過ぎには茅野の長円寺についた。もみじが既にすっかり紅葉して見事であった。この寺には石仏百体観音があり拝観することで全国の寺を詣でた同じ功徳をあげられるという。次に蓼科高原の横谷渓谷温泉に寄った。この温泉は茶色に濁ったぬるい湯だった。帰り道に勝沼で葡萄狩りとハーブ園散策を楽しんだ。帰路は中央高速が事故渋滞三時間半だった。乗務員がスマホで交通状況を検索して都留市あたりで一般道35号線を迂回したらしい。リニアモーターカー試験線傍の道の駅でトイレ休憩をした。午後18じを越えたので既に売店は閉鎖していた。さらに一般道を進み相模湖で再び中央高速に乗り八王子で降りて石川町パーキングで小腹をおさめた。新百合ヶ丘にもどっのは21時半くらいだった。

文化の日に秋の叙勲について思ったこと!

 今日は文化の日である。秋の叙勲の記事に接した。在職中には文化の日に医学関係の方が叙勲されると祝電を打った。そのくらいの関心しかなかった。今年は4249人が受章した。叙勲は70歳以上の方が対象のようだ。新聞に泉ピン子さん、永田和宏さんの受賞コメント記事がでていた。歌手の由紀さおりさんも受章された。お三人とも72歳で私と同年齢であった。「ああそうか、72歳と言うのはそういう齢なのか」と改めて思った。「何か優れたことをなさった方」、その道で優れた業績を上げた人が表彰されたのだろう。
 翻って、私はなにをしてきたろうか? 何も優れたことはしてこなかった。しかし、戦争に行くことなしに、いわば経済戦争の社会でいきてきた。「それでよかったのだ!」と、漫画の「バカボンのパパ」ならいうだろう。

平安の処方箋 令和に再び

 「平安の処方箋 令和に再び―日本最古の医薬書 新たな現代語訳進む」という興味ある記事が今日の朝日新聞夕刊にでていた。私のこのブログは、自身の健康管理の記録や通院記録そして広く医学・医療の話題を拾っている。上記の新聞記事も記録と記憶のために引用しながら紹介したい。

 日本最古の医薬書の現代語訳が進み、伝統医学「和方」の膨大な処方が、再現可能になろうとしている。西洋医学に対して、中国医学(「漢方」)がるが、「和方」という日本古来の医薬書があったのだ。
 この医薬書は平安時代桓武天皇(737~806)が作らせた「大同類聚方」だ。原点は失われたが、複数の写本が存在するという。今回は、幕末の医家佐藤方定が高く評価した「寮本」を横浜薬科大学の漢方和漢薬調査研究センターが、来秋完成にむけ現代語訳に取り組んでいる。桓武天皇は手頃な国産生薬の「和方」で医療の全国標準化を目指して、編纂を命じ、死後完成したという。万葉集で知られる大友家持が伝えた「高千穂薬」という処方箋も含まれている。

 実に興味深い記事なので紹介した。来年の秋には完成するらしいので関心を持って待っている。

里山歩きと水分補給に思う!

 本日は山歩きの会(「三歩会」)の例会で、小田急線の秦野から震生湖、頭高山の麓まであるいてきた。午前10時に秦野駅に集合した。ゆっくりと歩いて震生湖には11時30分くりあについた。途中、秦野盆地の湧水群をみたいして穏やかな温かい秋の散策を楽しんだ。震生湖は関東大震災の折に崩れた山が小川を堰き止めて誕生した小山の中の湖である。沼間には緋鯉が泳いでいた。釣り人が5~6名くらい釣り糸を垂れていた。何が釣れるのだろうか?釣り上げる姿は一度も見なかった。今回は沼間の周りを左回りに一周して沼をみおるす林のベンチでお弁当を食べた。その折には仲間の一人のTMさんが豚肉、大根、ジャガイモ、白菜などを持参して飯盒で豚汁をつくってご馳走してくれた。たっぷり1時間半くらいかけて昼食を楽しんだ。そのあと、ぽかぽか陽気に激励されて尾根の畑道を7~8キロ位歩いて頭高山の麓まで足を延ばした。着いた時には15時30分くらいになっていた。この麓には秦野市が登山客のためにトイレを設置してくれている。このトイレ休憩を目指して若干の無理をして歩いたことになる。頭高山麓から駅を目指して40~50分で渋沢駅に着いた。

  17時頃に渋沢駅について恒例の「チョイと」のために「目利きの源次」という居酒屋に入った。19時まではビール、サワーほかの飲み物は半額セールだった。オートバイで最寄りの駅にきているNさん以外は生ビールを飲んだ。そのあとグレープフルーツサワーを連れ合いのY子さんは飲んだ。お摘みにホタテの刺身ほかも食べた。飲んで食べて1時間20分くらい経ったところでY子さんが眠ってしまった。意識がないようなので私が肩を支えて話しかけた。時間にして多分10秒くらいかもしれない。「どうしたの?」という感じで目覚めた。そのあとは頂いたお茶を飲んだりして過ごした。19時15分頃に私が幹事をして支払いを済ませた。そして私がトイレを済ませて戻ってきたら、今度はY子さんが右足の脛の筋肉が攣ったとのことで立ち上がれなくなってしまった。10分位マッサージしてやすんでから漸く立ち上がることができた。そのあと、居酒屋をでて駅まで3分くらいの道を恐る恐るあるいて駅のホームに入ることができた。19時30分発くらいの渋沢発の新宿行きは混んでいて暫くは吊革に掴まって立っていた。途中で座れて20時5分くらいには新百合ケ丘駅に戻ってくることができた。

里山歩き+お酒飲み+疲労=眠気」とい図式は今年の4月頃に、鎌倉アルプスで長時間歩いた折の事件と全く同じである。前回は意識消失のため大事をとって救急車を呼んだ。著しい低血圧があり大事をとって、湘南鎌倉病院に救急搬送となった。1時間くらいの点滴輸液のあとこの時も電車で帰宅することができた。同じようなことが2回おきたということは、重要な示唆を与えてくれる。今後のために記録した。自戒として、歩行時の水分補給と途中の休憩を入れることにしよう。それと、アルコールを飲みつけないYこさんはビールは小ジョッキ1杯にと止めることだ。
 (2019.11.1)

 

 

 

森鷗外 記した「医者の心得」―今日の新聞から

 興味深い記事を読んだ。森鷗外 記した「医者の心得」―今日の朝日新聞夕刊から紹介する。
 軍医でもあった森鷗外医学書に寄せた序文で医者としての基本的な心得を述べているのだという。「病人をみずして病気をみる」の戒めを既に森鷗外が指摘していた。以下、新聞の引き写しにもなるが記憶と記録のためにここに記しておく。

 件の序文は、鷗外の出身地島根県津和野町が2017年に埼玉県の収集家から購入し、森鷗外記念館(津和野町)の所蔵資料になった約7500点の中から見つかった。1891(明治24)年に刊行された医学書「新纂診断学」に、本名の森林太郎の名前で3頁にわたり約400字の漢文でつづられている。
 「近世の治術は専ら器械を借りるは是也れなり。蓋し器械は五官の及ばざるを扶け、以て功を成すのみならん。」いまの日本語になおすと次のようだ。「近ごろの医者は専ら医療機器に頼る傾向がある。要は、目、耳、鼻、舌、皮膚の五官の観察の及ばないとき、医療機器を用いて初めて成功するのである。」

 鷗外記念館によると、1884(明治17)年から4年間のドイツ留学を終えて、陸軍軍医の教官を務めているときに執筆したらしい。
 この記事には、次のような事も書いてある。「鷗外のひ孫で、千葉大学予防医学センター長の森千里教授(59)は、<患者に信頼される医者でなければいけないとの記述最も印象に残った>という。」

 見る技術としての顕微鏡、聞く技術としての聴診器の発見が、臨床医学を格段に進歩させたことは疑いもない。森鷗外の件の文章は、機器に頼るよりも先ずは自らの五官を研ぎ済ませて患者を見よと言っているのだ。森鷗外といえば、臨床医というよりも謹厳な医学者というイメージであった。それも、時代と軍医という立場がしからしめたのかもしれない。もとより森鷗外は、一方では文学の徒(小説家)であったのだから人間観察のほうが本職であった筈だ。違う目線から森鷗外に向き合う手立てになるかもしれない興味深い記事に出会えた。