TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

原 武史さんの「歴史のダイヤグラム」(朝日新聞夕刊 土曜日Be連載)を読んで

 「歴史のダイヤグラムという朝日新聞の土曜日(Be欄)に連載(らしい)の標記の記事を毎回面白く読んでいる。原さんの肩書は、政治学者となっている。ウィキペディアで調べたら、明治学院大学名誉教授ということで私より15歳も若い方だ。この連載は何れ本になるだろう。なって欲しいと思う。原さんは、政治学者とのことだが、鉄道が好きで小田急線、東急線の歴史にも詳しいようだ。今回は、私の住んでいる小田急線柿生界隈のこと出ていたのでここで記憶と記録のために紹介しておきたい。無断の引用をするがご了承をお願いする。

 「1941(昭和16)年4月16日、小田急小田原線の柿生付近の多摩丘陵を歩く4人の男性の姿があった。区内大臣松平恒雄、同秘書官の筧素彦、宮内省内匠寮管理課長の池田秀吉、そして護衛の私服警官だった(『昭和史の天皇』2)」。

 「池田秀吉によると、彼らが向かったのは柿生駅の北西に当たる東京府南多摩郡鶴川村(現・町田市9で、『柿生離宮』の建設が計画された多摩丘陵の一角を視察するのが目的だった。実は離宮というのは名目にすぎず、十分な防空施設のない宮城(皇居)に代わる新皇居を建設しようとしたのである。」

 上に引用した記述を読むと実に面白い。私の住んでいる川崎市麻生区はるひ野は、小田急柿生駅から北西に4 キロほどで、かつては黒川村といったらしい。この地域は川崎市であるが、周りは東京都の多摩市(北)、稲城市(東)、町田市(西)に隣接している。川崎のチベットと呼ばれている丘陵地帯である。拙宅から歩いて徒歩10分ほどの諏訪が岳は標高144.4メートルで三角点の表示が設置されている。もしかしたら、「柿生離宮」の候補地だったかもしれない。

 「世田谷区成城町に住んでいた民俗学者柳田國男は、戦時中、毎週のように成城学園から小田原線の下り電車に乗り、多摩丘陵一帯を散策する習慣を続けた。」

 「例えば、1944年2月16日には、柿生駅から稲城村(現・稲城市)の杉山神社天満神社に立ち寄りながら、南部鉄道(現・JR南武線)の稲城長沼駅まで歩いている。」
 「この前年にはm、鶴川村広袴を訪れている。広袴は、まさに柿生駅の北西に位置していた。柳田は広袴の印象を、『丘陵地の窪み』(『水曜手帖』)と記している。ひょっとしたら、この窪みに、柿生離宮が建てられたのかもしれないと思った。」

 上記の、広袴も私の家から歩いて10分くらいだ。さらに10分くらい歩けば、鶴川駅の近く(町田市・能ケ谷)にはかの白洲次郎が棲んだ武相荘がある。原さんは、広袴をもしかしたら柿生離宮の候補地といっている。しかし、盆地は宮城には向かないだろう。むしろ、この辺りの丘陵の高みにある諏訪が岳が柿生離宮の有力候補地だったのではないだろうか?諏訪が岳は、かつての鎌倉街道と尾根幹道との接点に位置し、多摩川をはさんで東京、横浜も見渡せる。かつては関東から九州の護りに赴く防人たちが再び帰ることのできないだろう故郷を振り返ったとされる見返り峠も近い。

 ということで、本日は柿生離宮の話を楽しく読んだ。