TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

長命な歌人「土屋文明さん」のことについて調べてみた

 木俣修さんの『短歌の作り方』を読み継いでいる。この本は改訂版なのでよく読まれた本なのであろう。この本の「第5短歌の伝統」の近代の短歌の項目で、木俣さんは落合直文さんから木下利玄さんまで30名の歌人の歌を掲示し、その人となりも紹介している。その中には、石川啄木正岡子規斎藤茂吉若山牧水、伊藤佐千夫、島木赤彦、土屋文明さんなどがおられる。その多くは早世している。その中で群を抜いて長命なのが土屋文明さんである。土屋文明さんは群馬県の出身で、私の母校の高崎高校の前身高崎中学の出身である。高崎高校の同窓会名簿によると、土屋文明さんは全日制第8期卒業である。私が第64期卒業なので、私より56期先輩である。チョット下世話の興味だが、土屋文明さんには特別な思い入れもあるので調べてみた。

 土屋文明さんは、1890年(明治23年)9月18日に生まれ、1990(平成2)12月8日に亡くなった。明治、大正、昭和、平成まで100年近い生涯を貫いたのだ。私が高崎高校に入学したのは1961年だ。その折に、先輩に土屋文明という有名な「歌人」がいるということを聞いた。国語の教科書に「高槻の梢にありて頬白のさへずる春になりにけるかも」(多分、島木赤彦)という歌が載っていて好きだった。土屋文明さんは島木赤彦と同時代なのだろうか。群馬県というと空っ風と国定忠治が有名で、養蚕が盛んな農村地帯だ。私の生家も養蚕業を営んでいた。文明さんの履歴はこうだ。

 「群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の貧しい農家に生まれる。祖父の藤十郎は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えれれおり、家族は村人たちから冷たい目で見られ幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。父の保太郎は農家の傍ら生糸や繭の仲買で生計を立てていたが、村に居づらく、村を出入りして商売をしていた。」

 この履歴をみるとまるで群馬のどうしようもない親父のもとに生まれたのだとわかる。群馬県の特産といえば、ヤクザの他に萩原朔太郎、萩原恭二郎、大手拓治等、詩人を輩出しているから、土屋文明もその系譜に入るといえるだろう。
 「(文明は)旧制高崎中学在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。卒業後に恩師村上成之の紹介で伊藤佐千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加した。さらに、佐千夫の好意により、第一高等学校文科を経て、東京帝国大学に進学した。東大在学中には芥川龍之介久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)に文学部哲学科(心理学専攻)を卒業した。」
 この履歴は、インターネットでウキペディアから記述した。それにしても興味深い経歴だ。高崎中学時代に『ホトトギス』に投稿したということは、早熟な文学少年であった。伊藤佐千夫が少年の土屋文明を評価しバックアップしたのであろう。その前に高崎中学の恩師・村上成之さんという方は、国語の教師だったのだろうか?私の1年上に村上直之さんという詩を書く先輩がいた。成之さんは村上直之さんの祖先なのだろうか?

 土屋文明さんのその後の活躍については、本にあたればわかるのでやめておくことにする。ここで再び木俣修さんの本に沿って記述する。

 わがために蚕室(こむろ)きよめて床(とこ)のぶるたらちねの母腰かがまれり
(帰ってきた自分のために蚕室を掃除して床をのべてくれる母、この母ももう老いて腰がまがってしまった。)
 この歌の風景は、養蚕農家に生まれた私には手にとるようにわかる。養蚕農家では蚕を買っている時期には母屋を蚕に乗っとられて、寝る場所もないくらいだった。

 古家の蚕棚(こだな)のあひに一夜(ひとよ)ぬる天(あま)の遠夜(とうよ)に蛙(かはず)はひびく
 (上州は養蚕どころで、その郷里も養蚕が家一ぱいにひろげられていたことが知られる。伊藤佐千夫の門に入って、その風をうけ、抒情味の豊かな歌をなした青年期の作である。)
 伊藤佐千夫は牛飼いであったので、同じ養蚕という農家出の土屋文明さんを可愛がってくれたのだろうか。同じころ、歌人長塚節には、『土』という小説があった。これも農家が舞台の小説だと記憶している。
 ここまで書いてきて、私は土屋文明さんの肝心の「歌」を余り読んだことがないと気がついた。この機会に土屋文明さんの歌に触れたいと思う。そういえば最近、日本ペンクラブの「電子文藝館」でも文明さんの歌を読めるようにしたことを思いだした。