TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

生きることはやっぱり寂しいか―短歌とは「生きる」ことなり

 怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい(東 直子)

「酒を呑んで飲まなくても人生は寂しい・・」町田康さんが禁酒のすすめのような本に、こう書いていた。酒を呑んで満たされた気持ちになるのがそもそも間違っているのだという。この本に感化され節酒方法として「一人酒」を止めて1か月が経過した。夜に本が読める。今日は以下の5冊を、稲城図書館で借りてきた。

 穂村 弘『あの人と短歌』(NHK出版)
 高橋源一郎『さようならギャングたち』 (講談社文芸文庫
 中森明夫『寂しさの力』(新潮社)
 高橋源一郎『私生活』(集英社

 私の最近の楽しみは本を読むことである。本を読むことにの意味があるのか?何の意味もない。いまさら教養を深めるでもない。ただ本を読まないと落ち着かないのである。

 『短歌の友人』を読み継いで、第3章〈リアル〉の構造のところまできた。冒頭の東さんの歌は、穂村さんの本から引いた。
「短歌におけるリアリティとは、どうのように表現されているのだろう。」として、穂村さんは、次の練習問題を出していた。
 <〇〇〇〇〇〇おかれたみずいろのベンチがあれば しずかなる夏>
 この歌の、伏字〇〇にどのような文字が入るか当てるというものだ。「図書館の本」「コカコーラの缶」とかありえるが、元歌は、「うめぼしのたね」というものだった。「うめぼしのたね」の場合は、一首のなかで「しずかなる夏」が、ただ一度きりの〈リアル〉な季節として息きづいている」と、穂村さんは解説している。

 冒頭に引いた東さんの歌には、「怒りつつ」茶碗を洗っているはずなのに、いつの間にか「ごめん」と誤っている。つまり、小さな矛盾点が含まれている。

<したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ(岡崎裕美子)>
 この歌では、(セックスを)が隠されていると読める。「書かないこと」でリアリティを獲得しているのだという。

 こうして穂村さんの解説を読んでみると、短歌ってほんとうに精神の営みのようなんだと分かる。短歌においては、文章の原則である5W1H(いつ・どこで・だれが・なにを・なぜ・どのように)を欠落させて「書かない」方法や矛盾や混乱の導入があるんだという。このことについての穂村さんの説明に、目から鱗だ。

<人間にとっての日常的、社会的な行動の殆どすべては、このような合目的的な意識と方法によって支えられている。日常の多くの場面において、我々は、5W1Hを明確にすること、矛盾や混乱を排除すること、を要求され続けてきたはずだ。そして、人間のすべての目的とは最終的には「生き延びる」という大目的に収斂されるのである。>
 穂村さんは上のように書いた後で、次のように結んでいる。
 <我々の言葉が、〈リアル〉であるための第一条件として、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。詩を為すことは必ず死への接近を伴うという、しばしば語られるテーゼの本質がこれであろう。>

 なるほど、「たかが短歌、されど短歌」である。「詩を為すこと」は男子一生の仕事であるわけだ。「短歌は生きるためのエネルギーになる」ということを、確か佐藤佐太郎さんが言っていたのは、「死ぬ気で生きるために」短歌が役立つということだろうか。

 以上は、本日の短歌に関する読書感想だ。先日、恒例の散歩をしながら、例によって「57577」を捻ってみた。私がノロノロあるいていると、若者が後ろから走ってきてサッと抜いて行った。

 清々し走り抜けいく若人よ芋虫のごと我はあゆみし
 若人が走り抜けあと一陣のかぜ遅々と歩みし我に残り香
 スミマセン走り抜けたり若者が一陣のかぜ微か残り香

 いろいろと推敲してみたが、〈リアル〉な感動からは程遠いなあ。