TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「我々はどこから来たのか、そして、どこへ行くのか①」を読んでいる

日本文学盛衰史』を読み進めている。
二葉亭四迷長谷川辰之助が印度洋上に没したのは明治42年5月10日である。ただちに朝日新聞社では「二葉亭四迷全集」の編輯を開始し、西村酔夢がその担当となったが、校正を任されたのは入社間もない啄木であった。啄木は校正をしながら、その不思議な作家の全貌にはじめて触れた。啄木は驚愕し、また深く魅せらっれてゐった。四迷は啄木の知っているどの作家とも違っていた。啄木の知るかぎり、およそ作家や詩人というものは、文学の自立のために戦う人間であった。文学という新しい芸術を守り、育てていくためにすべての力を注ぐ人々であった。>
 なるほどそうであったのか、啄木は、本郷弓町の「床や」の2階の借間から、市電で銀座の朝日新聞に校正係として通勤していた。
 「はたらけどはたらけど我が暮らし楽にならざり・・・」なんて、詠いながらサラリーマンの仕事は好きではなかった。
 高橋さんは、啄木を上記のように描きながら、同時に同じ啄木を渋谷のブルセラショップの店長のアルバイトをやらせている。だいいち明治の40年代に「ブルセラショップ」なんてある筈もない。「ブルセラ」とは「ブルーマとセーラー服」のことだろう。
ポストモダンとはなんでもありで、明治時代に携帯電話やアダルトビデオショップが出てくるのである。

<啄木は生涯の最後の二年間を四迷の作品と共に過ごした。そして彼は四迷が作品中に書き残したメッセージの解読に成功したのである。>
 啄木は、二葉亭四迷全集の校正を行たが、第三巻の校正を果たせずに、結核のため明示44年12月には亡くなっている。
 高橋さんは、縦横無尽に啄木や二葉亭四迷の生きた明治40年年代と現代と駆け巡りながら書き続けている。そして、ついに自らが漱石と同じストレスからくる胃潰瘍で倒れ、生死の狭間を漂う。自らの胃カメラ写真も材料にしてしまう。「それはないぜよ、高橋さん」とい言いたいところだが、「日本文学盛衰史」は書き続けられてきた。面白い。これは自由な日本語の文章なのだ。最後までも読んでみよう。