TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『人生のやめどきーしがらみを捨ててこれからを楽しむ』(上野千鶴子・樋口恵子)を読んで思ったこと

 『人生のやめどきーしがらみを捨ててこれからを楽しむ』(上野千鶴子・樋口恵子)を稲城図書館で借りてきた。
 曽野綾子さん、瀬戸内寂聴さん、最近亡くなった篠田さん、等々おばさんたちは元気で生きている。この本は、マガジンハウスが、樋口恵子さんに持ちかけた対談本の企画のようだ。「人生のやめどき」をキーワードに、「家族のやめどき」「人間関係のやめどき」「社会のおりどき」「自立のやめどき」と続き、最後が、「人生のやめどき」で結んでいる。

「おばさんたちよく言うよね」というのが読後感だが、「さもありあん」という気がする。読後感は爽快で参考になる記述も多い。男性の五木寛之さんや伊集院静さんも、最近は、「人生のやめどき」のようなテーマに言及している。読後感としては、こちらのほうが上から目線のよぅな気がしないでもない。

< ●恵子の知恵袋:資産管理のしまい
 こんなせりふを聞きました。
 「少年を、大志を抱け」
 「中年男子よ妻子を抱け」
 「老年よ財布を抱け」
  賛成ですね。>

 樋口恵子さんは、二度結婚して(二度目のひとは事実婚らしい)、二人の夫を見送って、いまは一人で88歳になっている。

 最後の第五章「人生のやめどき」の項目に、「自分のやめどき」という項目があった。

 <上野 今、認知症に一番強い関心を持っていて。この間、認知症専門医に脳のMRIを撮ってもらいました。自分の今の脳の状態を記録に残しておこうと思って。
 樋口 私も撮ってもらいました。
 上野 早川先生はボケていなかったから、最期まで自分からおりられなかったかもしれませんが、認知症になってそのことを公表された長谷川和夫医師は、長谷川和夫からおりていっています。>

 ここの件は、「目から鱗」の感じがした。「認知症になるということは、自分からおりることなのだ」、と知った。早川先生は、高齢者の呆けが「認知症」に名称変更される前から、「呆け老人」を診てきた先駆者だった。この早川さんが、最期の三年二カ月のあいだ「生命維持装置」に繋がれて、胃ろうで栄養を補給しながら苦しんで生きていたというのだった。結果的にそうなってしまったのだろうが・・。
 聡明で知的な仕事をされた森崎和江さん(その著作を読んでないが)は、息子さんによれば、「母は、森崎和江からおりて穏やかに過ごしております」となったのだという。
 <上野 森崎さんの息子さんからの手紙を読んで、ああそうか、そうやって最後は自分からおりられるんだ、ということがなんだか慰めになって。認知症は単に忌むべきものじゃなく、自分にとってのある種の希望になろいました。

 さて、わたしは「認知症になりかけている」というのが同伴者の言い分である。そうかもしれない。でも、自分からおりられるもなら、それも一つの方向かもしれない。一方で、そう簡単には自分からおりたくない。池澤夏樹編集の日本文学全集を読んでみたいのだ。読んで何になるのか。なんにもならない。日本人なのだから日本文学をもっと知りたいのだ。
 上記の対談を読んで、『早川一光の「こんなはずじゃなかった」』(早川さくら著 ミネルヴァ書房 2020年)を読んでみたくなった。老人医療の専門家の早川さんは、理想の老人医療をうけることができなかったのだ。