TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

24時間の素面を生きる

 一昨日(2022年5月15日、日曜日)の夕食時にビール1缶(350㏄)と焼酎100㏄を飲んだ。それから、素面で暫く生活してみることにした。そこで、『しらふで生きるー大酒飲みの決断』(町田 康さん)を三回になるが読みだした。すると、町田さんは、日本語の文章が驚くほど上手なのに気が付いた。日本語の達人なのだ。読んでわかりやすい。

酒こそ、人生の愉しみ、か?

 この、序章にあたるところでは、古代の大酒飲みの大友旅人を紹介している。町田さんは、大伴旅人にならって、大酒飲みだった。倣ってというより、敬愛していたんあろう。でも、こういう掟はじぶんに課していた。

 <(旅人を紹介してから)まあ、それはそうとしてとにかく、昼間は飲まない、そして、仕事が終わるまでは飲まないという方針を打ち立てた私は、仕事はなるべく午前中に済ませる。午後四時以降は仕事をしない。などの運用上の工夫をしながら三十年間、一日も休まずに酒をのみ続け、生きていればいろんなことがあるが自分の人生に概ね、満足し、このまま飲み続けて、まあ、あと二十年くらいしたら死ぬだろう、と漠然と思っていた。ところが。ある日、大変化が起きた。>

 町田さんの文章は流れるようだ。わかりやすいのだ。文章の展開にむりがない。いわば、思考の流れというか、独白が流れるように続 いている。
 町田さんは、物書きで、音楽家でもあったので、9時から5時とかの勤務時間がないから、早めに仕事を切り上げて、午後4時から酒を飲むことができたんだ。町田さんが、「あと、二十年くらいしたら死ぬだろう」というのは当たっていると思う。「ある日、大変化が起きた」というのは、町田さんが、二十年より生きてみたくなったのではないか?

 酒やめますか? 人間やめますか?

 <ある日、具体的に申せば平成二十七年の十二月末日、私は長い年月、これを愛し、のみ続けた酒をよそう、飲むのをやめようと思ってしまったのである。>

 このように、思ってしまったのは、町田さんは実は、「このままではまずい、俺はこのままでは二十年は持たないな」と気がついたのである。

 ところで、私ときたら、もう七十五歳で、仕事も退職しているので、実は朝から飲んでも誰にも(ということはないか、連れ合いにかけるか)迷惑はを表面上はかけないだろう。私もいま、「このままではまずいな、毎日、夕食時に,ビール一缶と焼酎1合を飲み続けてもすぐには死なないだろう。でも、あと5年は持たないかもしれないな」と気が付いたのである。
 そこで、一昨日から、少しの間、飲むのをやめてみた。そして、複数の本を読んでいる。『暗夜行路』(志賀直哉)、『復活』(トルストイ)、『小説の読み方』(佐藤正午)、『しらふで生きる』(町田 康)である。
 酒を飲まないと、本を読む時間が増える。これは確実である。

 いずれ死ぬのに、節制など卑怯ではないか

  ともかく、町田さんの文章は読み易い。「言文一致体」という表現があるが、むしろ「思考一致体」とでもいうのか、頭の中で考えていることを流れるように言葉に置き換えているのである。
 私は、この本をもう三回も読んでいるので、町田さんが酒を止めた理由を、私は知っているのである。「このままいったら、後5年間くらいで死ぬな」と気が付いたのである。町田さんは平成27年(2015年)の12月に酒をやめたから禁酒して7年たっている。お元気で執筆しているようだ。多分、あのままであったら西村賢太さんと同じ道を歩んだろう。
 さて、私の禁酒も48時間を経過した。私は町田さん程大酒飲みではなかった。勤め人だから、どんなに早くても午後5時からでないと飲めなかった。私はケチで姑息な大人だから、やけ酒というか自分をだますために酒を飲んできた。逃げ酒なのであった。そこで、町田さんの本を3回も読みながら三度目の節酒をしている。このままいくと、倒れるなという予感がするのである。ヘルペスの痛みが、ここ1ヶ月は抜けない。左背中が痛い。

 今も続く正気と狂気のせめぎ合い

 <つまり一昨年の十二月末、私は気が狂っていた。
 気が狂っていたので、酒をやめる、などと正気の沙汰とは思えない判断をした。そしてそのあとき、私の頭にはふたつの考えが併存していた(なぜなら気が狂っているので。)そのふたつの考えのうち、正気のほうが狂った方を突き落とした。>

 町田さんは、酒をやめるとふと思ったのはなぜかと問い詰めている。私にいわせれば、もう少し生きたくなったんだとおもう。「このままでは、あと20年はおろか10年も持たないかな、と気が付いたんだ」と思う。

<つまり私はこの一年三カ月の間ずっと闘い続けてきた。私は飲みたいと正気と闘い、ま飲まないという狂気とも闘い続けてきたのだ。これを文学の業界では内面の葛藤と呼ぶ。>
 やはり小説家はうまいことを言うね。2015年12月に酒をやめたから、この本を書いているときにはもう1年3カ月も経っているんだ。これは、すごいことだ。「葛藤」もいいところだね。

 人生は本来楽しいものなのか? 苦しいものなのか?

 <酒をやめた理由を知っている狂気は歩道橋から落ちて行方知れず、おそらく死んだもと思われるのだが、幸いにして正気と闘っている方の狂気はまだ元気で、というのは当たり前の話だ、元気でないと闘えない、さっそく私は狂気のところへ話を聞きに行った。>
 このところは、論理の展開についていくのが面倒になってきた。ようするに、人生は本来、楽しいもんじゃないんだと、言っているのではないか? 酒を飲んで、一時、楽しくなったってしょうがないじゃん、と言っているのでは?

 飲酒とは人生の負債である

 ここの項目は、<酒をやめた>狂気の内面に迫っている。

「酒の愉しみは人生の資産でなく、楽しみと呼んでいるものは実は負債そのものであった、とい


 わかっちゃいるけど、酒をやめられないんだよな。きょうで、四日の禁酒が続いている。町田さんは、1年3カ月飲んでいない。
 

 肉体の暴れを抑制する方法を考える

 「肉体の暴れ」ということは、「酒を飲みたいという身体の欲求」のことと町田さんは行っている。つまり、どうしたら酒を飲まずにいっれるかの方法を考えているのである。

〈だからといって肉体の言うがままになっているわけにもいかず、そこはなんとか意志の力を鍛え、意志の働きでこれをやめるようにするよりほかはない。〉

 ところが、それがそう簡単ではないのを知っている、みんなが。「ちょいと一杯のつもりで」のんでもとの木阿弥。

 

 禁酒会の連帯感でさけはやめられるか?

 身体にわるい。人生の債務超過。そんなことは重々承知している。、、、、禁酒会には入って、みんなで止めればやめられるかというと、そううまくはいかない。

 

 酒を飲みたい肉体の暴れは肉体で縛る

 自分の身体を自分で縛って押さえつけて酒を飲まないようにすることはできないのだ。

 

 嫌酒薬は苦しみだけをもたらす

 毒をもって毒を制することができるのか?

 町田さんは、できないといっている。嫌酒薬を飲むと気持ちが悪くなるらしい。お金もかかる。そんな、薬をのむくらいなら暫くは酒を飲まないようにしよう。でも、永久にやめられない。

 

 禁酒宣言で背水の陣だ!

 禁酒宣言をしても酒はやめられないのだ。このことを、私も先見的にわかっているので、禁酒宣言はしなかった。節酒宣言のようなものは出した。そして、1週間くらいは酒をよしたことがある。今回、月曜日から土曜日まで酒を休んだ。これだけで、口唇ヘルペスの症状が消えた。やはり、酒の毒が身体の免疫系を著しく壊していたようだ。
 ということで、禁酒宣言は出しても役に立たないのだ。

 改造された人間になるか? 人間を改造すか?
 ここでも、町田さんは、多言を弄しているが、酒をやめられないと分かった。「私たちは改める改め方をさらに考える。そのことのよって考えを改め認識を深め、酒をやめなければならない。」

人間改造ができないなら、人格改造、いや認識改造で

 まちださんは、こんあことを言っている。「酒をやめるために人格まで改造する必要はなく、認識改造で十分なのである。」
 第一、人格改造なんてできないのだ。だから、ようは考え方を変えようという提案のようだ。町田さんは、立派にもう酒を7年もよしている。私は、まだ昨日から30時間くらいの間、素面でいるに過ぎない。でも、酒を飲まないと、本も読めるし、こうしてブログも書ける、利点がある。

 認識改造の第一歩は自惚れからの脱却

 このところで、町田さんが言っているのは、卑屈になるのではなくて、謙虚になれってことらしい。だいたいのひとは、「まま自分はいいひと」だと自己認識している。それは、それで間違っているのでHないが、「自惚れ」から自分を解き放つことだと言っているようだ。「謙虚」になれば、腹がたたず、自棄酒はなくなる。

続く

 人間は「自分」のことをまともに判断できない

 この章はは、自分の認識改造に言及している。こういうことだ。

<自分をどのように捉えるのか「この偉い俺」と考えるのか「この何もしらない私と考えることによって世界の見方が随分と違ってくる、乃ち、自己認識改造をするこおtによっ酒をやめようと申し上げているのである。>

 ここで、町田さんは、うれない芸術家、音楽家でもいいをれいのとって、論理を展開している。俺は一流の音楽家なのに世間に迎合しないので売れない。これは、こういうことになる。

<自分は幸福である権利を有している。ところが今朝方かたから夕方にかけて不当にこれを奪われた。ひどい目に遭った。そこで、自分は夕方以降、そもそも有していた幸福を感じる権利を行使することができるはずである。>

 この、町田さんの論理をわたしのようなサラリーマンにあてはめるとこうなる。今日一日、くそおもしろくもない仕事をやってきた、上司にもパワハラされた。不当な扱いを受けた。やけ酒だ、酒で憂さをはらそう。「幸福を感じる権利を行使する」ということになる。一杯やろう。

 ここで、町田さんは、売れない芸術家も、さえないサラリーマンも、別に不当な扱いをうけたのではないこと、を説明している。そして、こう展開する。

<それでは次に、一、そもそも幸福である権利があるのか。そして幸福とはなにか、について考えることによってさらに認識改造を進め、断酒の栄光に至る道を進んで行こう。>

 と、こういうぐわいに論理の展開が進む。さて、私は酒をやめたくて、町田さんの本を3回読んでいる。すくなくとも、読んでいるときは飲んでいない。「読むなら飲むな」となうのである。

 私たちに幸福になる権利はない

 ここのところで、町田さんの論理は佳境にはいってきた。そもそも、酒をのででもいいが、わたしたちに幸福になる権利がもともとないのだ、というのだ。

<「酒は涙か溜息か。心の憂さの捨て所」 という文言はそうした意味で酒の本質をズバリと言い表した句である。・・・自己認識改造に寄って改めることができれば、おさけくらい飲ませてよ。から、酒を飲んだところでなににもならない。というとこ炉まで駒を進めることができ・・・・」

 このあたりは、随分、核心に近ずいてきたかな。

 

続く