TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「Ⅵ 治療室楽屋論」(『劇的な精神分析入門』北山修)を読み継いでいる・・・

 この本は、かなり読みずらいが何とか最後まで読んでみたい。

1. 自分はみえない
「これまで精神分析の目標とは、自分と出会ってこれを見つめることだと言われてきた。果たして適切な表現だろうか。」
 この章の冒頭に書いてあった。
 次に、「精神分析は他の治療法と区別するために「蓋(あるいは、覆い)を取る方法uncovering method」だと自己紹介してきた。」とも書いてあった。」
 どうも、精神分析というのは、自分を他のひと(分析者)の前にさらけ出すことのようだ。

2. 額縁の外の自画像
 日本人の自画像は少ないらしい。佐伯祐三に自画像はあったろうか?
 「日本の画家たちが自画像を描かなかったのは、多くの場合、他人の目に触れる絵の対象として、私たちの自画像というものが、あまりにも普通であり、素のまま出すのが憚られるからではないか。」

3. 外の劇場・内なる楽屋
 精神分析の部屋は、舞台裏の「人生の楽屋」のようなところなんだということだ。
<劇としての人生で、それを考え直し、やり直すことに向けて働きかける、私たち分析的セラピストは、人生を分析する裏方なのである。>

4.話と物語
 たんなる「話」と「物語」の違いについて説明している。最近では、「ナラティブnarative」という言葉をよく聞くが、30年くらい前には、使われていなかったんだという。
<二人だけの治療室内で綴る話と、外部の第三者に向けて語られる物語を区別するなら、前者の非論理的で情緒的であるこおtに対して後者は理論的、理性的であり、前者がいきあたりばったりで、それほどきちんとした筋があるわけではないのに対して、後者はこの場がそうであるように、一つのまとまりある話として分かりやすく話されねばならない。>

5.定番物語

6.「素に戻る」

7.二者話の専門家として
 <精神分析の場の基本は楽屋であり、あるいは照明が落ちて誰もみていない舞台で、化粧を落とした人間がその素顔を上げ「どのように生きているか」を話す。>
 なるほど、精神分析というのは、そういうことか。受けてみたい気もするが、怖い気もする。普通のひと(普通って何?とおなるが)は、「素の顔」はなるべくださずに、その場で演じて生きているのではないか。私はそうである。精神分析家としての医師になれそうもないな。

 8。「話になる」
<治療室の中ではあらゆる話に「言葉に」なる」「話になる」という時間と手間のかかるプロセスがあり、重要なのは言葉が生まれる過程を受け手と聞き手の両者が二人で抱えて共にするという二者心理学的な見方である。>

 上のような説明を読むと、精神分析がというものが少しだけ理解できる。