TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「VII 劇としての人生」(『劇的な精神分析入門』(北山 修著)を読み継いでいる

この章の最初はこうだ。

1 「共に眺めること」
「あなたは頭に浮かんだことを何でも、そのまま話してください。たとえば、汽車の窓際に席をとった旅行者が内側の関を座った人に向かって、自分の眼前の窓外の眺望がどんあふうに変化してゆくか、その有様を次々と話してきかせるようにやってください」
 私は、このフロイトの「分析的治療の開始について」(1913)における自由連想法の説明が気に入っている。

 上の文章の下線を引いた部分は、「内側の関座った」ではないだろうか?校正ミスか?

 この、項の説明が実はよく理解できていないのだが、・・・。先に進む。

2 劇と精神療法
 北山さんは書いている。

<人生や実人生が空極的には「神の前で演じられる喜劇」であり、世界は舞台であり「男も女も世をあげて芝居を演ず」という考え方がたんなる比喩以上のものになりことは、」ダンテやシェイクスピアが提供する観点を通して古くから存在することが分かっている。>

3 行動化は劇化

4 自己実現はない

5 考え直す・書き直すための理論

6 実人生演劇説

 共感した件を引用する。

<前章で、日本人には自画像が少ないとかいたが、(そうなんだろうな?青木繁とか佐伯祐三に自画像があったような気がするが・・・)、対して私小説は俄然多い。私小説作家は私たちの創造的な在り方の見本となり、言語的治療を行う私は常々参考にしたいと思ってきた。そこで、取り上げるとなれば、当然、日本の私小説史の幕開けを飾った田山花袋『蒲団』(明治四十年発表)しかないだろう。>

 触発されて、『蒲団』を読み返してみたい。この章はよく理解できていないのだが、次のことを言っているのだろう。

<裏と表に二重化された人生を生き、劇のごとく眺めて書きつづける自我は創造的であり、おかげで読者はこれをどう生きるか、かんがえることができる。>

 要するにこういうことか。「劇としての人生」とは、自分のいきている現実をひとつの劇して客観化できれば、自分の人生を外から観ることができるということか?