TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」達の肖像―(144)関啓子さんと講演会「高次脳機能障害~専門家が当事者となったとき~ 2016(平成28)年2月7日

(144)私の「医人」達の肖像 ―関啓子さんと講演会「高次脳機能障害―専門家が当事者となったとき」~2016(平成28)年2月7日

 

  家内のY子が小脳出血で倒れ救急搬送されたのは、2015年7月3日の早朝(午前7時頃)であった。6月29日に義母(家内の母)が亡くなり、7月2日に葬儀を済ませたばかりだった。長女である家内が喪主をつとめたので、疲労とストレスは相当のものだったに違いない。
 トイレで倒れた。私が携帯電話で救急車を呼んで、家内は救急隊員に自分の名前を告げることまではできたが、そのあとは昏睡状態に陥ってしまった。搬送された横浜総合病院の救急室ではくも膜下出血との診断であった。その後施行した造影カテーテル検査で小脳出血と判明した。救急外来に3週、そのあと脳外科病棟で2カ月、さらに転院したリハビリテーション病院に1ケ月の入院を余儀なくされた。家内は持ち前の負けず嫌いでリハビリに励み徐々に回復し、10月27日に約4カ月の入院から強引に自宅復帰した。

講演会「高次脳機能障害―専門家が当事者となったとき■

 関啓子さんの講演に私が関心を抱いたのは、小脳出血からリハビリテーションの真最中であった家内の「高次脳機能障害」について知識を深めたいという目的もあった。関啓子さんについては、ガザニガ著『社会的脳―心のネットワークの発見』に関連して、「Gazzaniga vs. 杉下守弘さん:インタビュー脳研究の新局面—右半球に言語機能があるか~1987年9月11日」で既に一度触れている。
 件の講演会は自宅に帰ってから3ヵ月後であった。講演会のことは稲城市若葉台にあるiプラザ市立図書館掲示板で知り、電話で問い合わせて参加申し込みをした。先日、資料を整理していたら件の講演会に関する案内チラシがでてきた。件の講演会のチラシには次のように書いてあった。
 「脳卒中などの病気や交通事故などによって脳にダメージを受けた場合、記憶力が悪くなったり、言葉が出なくなったり、怒りやすくなったりと様々な後遺障害が残る場合があります。この講演会では、脳損傷後の後遺障害「高次脳機能障害」とは、どのような障害なのか、数十年間、専門家として勤めてきた講師が、ある日突然当事者となった、そのお立場からお話していただきます。」

講演会は2016(平成28)年2月7日(日)午後14時~16時だった。会場は稲城市地域振興プラザ会議室。主宰は社会福祉法人「正夢の会」と稲城市障害者総合相談センター「マルシェいなぎ」であった。以下、改めてこの講演会と講演者の関啓子さんのことを私自身の記憶と記録のために纏めておきたい。詳細に過ぎるかもしれないが、当日の配布資料から、関さんの履歴を紹介したい。

関啓子さんの履歴■
1952年:東京で生まれる。
1976年:国際基督教大学ICU教養学部語学科卒業。在学中にF.C.パン教授の特別講義で「失語症」とであい言語聴覚士を目指す。卒業の当時、「言語聴覚士」の国家資格は日本ではまだ法制化されてなかった。
1977年:スペインのマドリード大学に留学。何年くらい滞在し何を学んだのだろうか?
1976年:東京銀行(当時)本店営業部輸出課勤務。社会人経験を踏むために就職と書いてあったが何年勤務したのかな?
1981年:国立障害者リハビリテーションセンター学院聴能言語専門職員養成課程入学。
1982年:国立障害者リハビリテーションセンター学院聴能言語専門職員養成課程卒業。この学院の修学年限は2年間だろうか?
1982年:東京都神経科学研究所リハビリテーション部門に勤務。在職中に、WAB失語症検査日本語版の作製・標準化に携わった。WABの日本語版の作製は、杉下守弘さんが行った。関啓子さんは、この時に杉下守弘さんと一緒に仕事をしており、ガザニガ『社会的脳』翻訳にも携わったのであろう。
1983年:中村記念病院(札幌市)言語室にて約5年間にわたり臨床活動に従事した。夫の転勤で札幌市に住んでいた。関さんは結婚して家庭を持っていたのだ。
1989年:東京都神経科学研究所総合リハビリテーション研究部門。
1995年:東邦大学大学院生理学講座の特別研究生となり、医学博士号を取得。関さんは、生理学の岩村吉晃先生に学んだのだろうか?博士号のテーマは何か?
1999年:1999年から神戸大学医学部助教授。第1回の国家試験で言語聴覚士の資格取得。
2002年:神戸大学医学部教授。
2008年:神戸大学医学部大学院保健学研究科教授。
2009年7月:心原脳塞栓症を発症。病気のため休職。心原生とは、心臓かの血栓が脳に飛んだのだ。長島茂雄さんと同じ病気だ。
2010年5月:現職復帰。今回(2016年)の講演は2009年8月~2009年5月に現職復帰するまでの1年10カ月に及ぶリハビリテーションの記録である。
2011年3月:神戸大学退職。同大学客員教授
2013年4月:三鷹高次脳機能障害研究所を開設。高次脳機能脳機能障害に対するリハビリテーションと相談に従事している。

講演の内容■

関さんは脳梗塞後発症の直後、血栓溶解療法(tPA)により動脈が再開通して、直後に発声が可能になった。そのあと3週間の急性期リハビリテーション、回復期3カ月のリハビリテーションを経て、10カ月で現職復帰を果たした。
 当日の講演の内容は以下の3項目だった。
①私の脳梗塞概略。
②リハセラピストへの提言。
③セラピストとの質疑応答。
 当日配布されたパワーポイントの資料を見ながら講演概要を振り返ってみたい。

(1)脳卒中発症後の私の気持ち
 障害者となった関さんは、「寂しさ」「腹立たしさ」「やるせなさ」「劣等感」「失意・絶望」を感じながらも、「語り部」としての使命感をもって、障害当事者の生活を克明に記録した。その成果として、以下の本を出版した。
・『話せない』といえるまで(医学書院、2013年)
・「障害の当事者となるということ―対談:岩田誠  関啓子(医学界新聞、2013年)
・『まさか、この私が』(教文館、2014年)

(2)2009年7月、神戸市内で左足の脱力にて、心原性脳塞栓症を発症した。当時は、多忙でストレスフルな生活を送っていた。前日は深夜に及ぶ大学院生に対する指導の仕事をこなし、当日の朝は予兆なく平常通りであった。
(3) 頭部MRI画像(2010年1月21日撮影)によれば、病巣は下・上前頭回後方前方島皮質,前部帯状回、前・後中心回縁上回を含む前頭―頭頂葉あった。
(4)出現した症状は、以下のようだ。
 神経学的症状:左半身の運動麻痺、左半身の感覚障害、右共同偏視、嚥下障害、構音障害。神経心理学的症状:発話困難、多彩な高次脳機能障害。現在残っている症状:左手の運動麻痺、左半身の感覚障害、談話の障害、情動失禁、注意障害(軽度)。
(5)病期とその概要は以下のようだ。
 急性期:3週間。「チーム名谷」のサポート、大学院生のお見舞いあり。
 回復期:転院、PTによるリハを、回復期病院で3ヵ月半。各専門家チームにより復職を目指したリハ。認知神経リハ(NCR)を知ったのは終盤であった。
 急性期病院では、最大2カ月しか在院できない規則がある。小脳出血で家内が横浜総病院に搬送された時も、救急病棟に二週間いて、脳外科の一般病棟で急性期リハを1ヵ月半くらい行った。その頃に、転院先を探すように主治医から言われた。地域医療連携室という部署があり、近辺の三つの病院を転院先として紹介された。
 復職準備期:東京の自宅で六ヵ月。認知神経リハ(NCR)を主体とした復職準備。
 認知神経リハとは? 英語でNeuro-Cognitive Rehabilitation(NCR)。イタリアの神経科医Carlo Perfetti教授により提唱された「認知神経リハビリテーション」は、「運動機能回復を病態期からの学習過程である」と考える認知理論に基づいた最新のリハビリテーション治療方法として、近年ヨーロッパ諸国で注目されている運動療法のことである。1990年代には既に、日本でも導入されていた。2022年10月1日、2日に第22回認知神経リハビリテーション学術集会が、島根県松江市の「くにびきメッセ」で開かれた。
 復職期:10ヶ月。神戸のサービス付き高齢者向け住宅に住んでいた。
 2010年5月に、大学院生が復職歓迎会を開催。認知神経リハ(NCR)を継続。関さんの場合は10カ月で現職復帰を果たしているのであるから驚きである。復職し、停滞した研究室の復興に成功。NCRを継続。持続する上肢麻痺に阻まれ介護保険下で単身生活持続不能のため断腸の思いで退職を決意された。
 退職後期:2011年3月。神戸大学を退職。東京の自宅で、リハビリテーション効果が期待できそうなあらゆる方法を導入し回復に挑戦(59か月)。全経過中も最新治療の恩恵を最も多く受ける。
 退職から2年後、2013年4月、三鷹高次脳機能障害研究所を開設した。「高次脳機能障害~専門家が当事者となったとき~」という講演会開催は、2016(平成28)年2月7日。
 講演会は、三鷹の研究所開設から3年後のことであった。当日、講演から質疑応答まで含めると2時間余に及ぶ長時間。さすがに後半にはお疲れの様子が見えた。驚異的な回復を支えたご家族の支援が素晴らしい。ご主人と成人したお子さんがおられた。記録をまとめている現在(2022年11月11日)、関さんは三鷹高次脳機能障害研究所での活動を継続されている。
(6)症状の劇的改善
 ①表情:表情筋麻痺のため無表情であったのが、豊かさが回復。
 ②高次脳機能障害:多種多様な障害が、一部残存も大半は消失。
 ③発話:随意的発話困難から、ほぼ回復へ。
 ④下肢の麻痺:歩行不可能から杖なし、独歩へ。
 ⑤上肢の麻痺:随意運動不可能から補助手レベルへ。
 人間の脳の可塑性というか、回復力は、素晴らしい。驚くべき回復力である。これも神経行動リハビリテーションと関さん自身の意欲の強さが影響しているのではないだろうか。
 小脳出血で倒れた私の家内の場合も、急性期には発話ができず、スケッチブックとペンを持っていき「筆談」で意思疎通をはかったのを思い出す。今回、関啓子さんの講演を振り返りながら、関啓子さんと岩田誠さんの対談を読んだことを想い起こした。対談は「週刊医学界新聞」(2013年6月17日付)に載っていた。その年(2013年)の1月28日付けで、私は医学書院を退職したので、医学界新聞は自宅に送って貰っていた。発行直後に対談を読んだ記憶はあるが、その時には読み過ごしてしまっていた。興味を惹かれ読みはしたのだがガザニガの本を翻訳した関さんであることに気が付かなかった。座談会の少し前に、『「はなせない」と言えるまでー言語聴覚士を襲った高次脳機能障害』という単行本を、関さんは医学書院から発刊していた。この単行本の広報を兼ねて、上記の座談会は企画されたものと推測される。今からでも読んでみたい。稲城市川崎市立図書館に件の本をリクエストしたがなかった。自分で購入するしかない。
 以下、記憶と記録のために標記の対談を読みながら、概要をまとめておきたい。

対談:障害者の当事者になること(岩田誠・関啓子)
屋上に屋を重ねることになるが対談の概要を再掲しておきたい。矢印で対談の流れを示し私のコメントを追加する。

 岩田 関先生が脳梗塞になられたことは伺っていたのですが、具体的な病状は知らず、ご著書『「はなせない」と言えるまでー言語聴覚士を襲った高次脳機能障害』を拝読して驚きました。
  発症前は過労と生活の乱れがあった。
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路上で倒れて救急搬送された。
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tPA(組織プラスミノーゲン・アクティベータ)の投与を受けた。
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前頭葉の梗塞により、左片麻痺、左半側空間無視をはじめとした多様な高次脳機能障害となった。
利き手が左だったので、言語機能(発話面)に障害。
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専門家が自身の専門領域の疾患に罹患した。
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当事者でなければわかり得ないことを伝えたいという思いをモチベーションに
社会復帰を目指した。

<コメント> 専門家が専門領域の疾患に自ら罹患したことで、それまで外からみていた事象を内側からも見ることになった。これは、すごいことだ。「病という才能」を与えられたようなものだ。
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皮膚感覚の異常に悩まされる―左顔面、特に眼・耳・頬周辺部の痒み、手掌にザワザワとした妙な感覚、令刺激に対する痛みを感じる。
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半側身体失認を身をもって実感―車いすのタイヤに左手を巻き込まれそうになる。脳が「危険を無視してしまう」―身を守る行動がとっさにとれない。
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病識を持つことは回復の面からも非常に大切である。「知識・病識・意識」の3点が早期の症状軽減に結びついた。

<コメント> 関さんは自らの疾患の専門家であったので、早期の回復に結びつけるための「病識」をしっかりともっていたという特殊ケースであるようだ。
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麻痺については知らないことが想定外の回復につながった。
・tDCS(経頭蓋直流電気刺激法)。
・TMS(経頭蓋磁気刺激法)。
・ボツリヌス療法。
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 予後予測にかかわらない最新の治療を試みた結果として、左上肢のつまみ動作もスムーズに、肘も伸びるようになった。予後予測の在り方について検討をし直す必要をあるかもしれない。

<コメント> 関さんはなりふり構わずあらゆる治療に挑戦したのだ。ボツリヌストキシンは、もしかしたら対応の疾患ではなかったのではないだろうか。「どれがどのように効果を及ぼした」という検証ができたのだろうか。興味深い。ボツリヌス菌臨床応用といえば、研究開発された梶龍兒さん(当時、京都大学神経内科講師)を思い出す。

音楽が促す発話■

 発症したその日、私は意識レベルが下がり急性錯乱のような状態にありました。医師など数人が枕元で議論している声で目が覚め、その時思い出していたのが「意識障害の患者に音楽を聞かせた結果、意識レベルおよびいくつかの高次機能障害が改善した」という論文(Brain、2008)のことです。かつて、Melodic Intonation Therapy(MIT)の日本語版を作成したことがあり、音楽の持つ力には改めて興味を募らせているところです。
■MITとは?■
 ブローカ失語症者が、歌は歌える場合があることから開発された治療法。発話に内在する、メロディ(ピッチ)、リズム、ストレスなどの音楽的要素を利用し語句の持つ音楽的パターンをセラピストとともに歌うことで、失語症者のスピーチの流暢性を改善する。
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 岩田 認知考古学者のスティーヴン・ミズンの説によれば、ネアンデルタール人が持っていたと推測される音声言語は、歌や呪文のような音の流れであった(『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』、早川書房)。
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目に見えない力の”癒し”■
  音楽の力に加え、今、気になっているのが「気」など目に見えない力が心身に及ぼす効果というものです。
・気功=リハビリの一環として。
・手かざしの技。
・パワースポットで感ずるオーラなども含め、既存の「五感」とは違う「力」。
<コメント> 関さんは、実に多彩な治療法に挑戦したのである。

「生活」を見られるセラピストに■
・生活の改善に直結するリハビリをおこなうこと=良いセラピスト。
・「生命」「生活」=英語では共にLifeである。
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回復期リハビリの受け皿を目指して、三鷹高次脳機能障害研究所を開いた。

回復の支えとなった言葉たち■
・楽しみながらリハビリをすればいい(夫の言葉)。
・神様は試練と共にそれに耐えられるように逃れる道を備えてくださる(関さんはクリスチャン)。
・運び込まれた病院にはtPAなどの治療体制が整っていたことも、全てが天の配剤であり、(病気という)経験そのものが神様からの贈りものかもしれない。
<コメント> 関さんが語る言葉があくまでも謙虚なのに驚いた。病気すらも天の配剤とすれば、「病という才能」「当事者のリハビリテーション」という機会を神から与えられたことになる。この対談を読みながら、私の家内が小脳出血で運びこまれた横浜総合病院には、脳血管内カテーテル手術の経験に優れた横内哲也(副院長)先生という脳外科医がいたという天の配剤があった。これも神様からの試練の贈りものなのだろう。
 今回は古い資料の読み返しながら関啓子さんと高次脳機能障害リハビリテーションに触れた。改めて読んでみると貴重な体験記録であると切に思う。
(2022.11.10.)

(私の「医人」達の肖像〔144〕 ―関啓子さんと講演会「高次脳機能障害―専門家が当事者となったとき」~2016(平成28)年2月7日)